木曽中等学校の昭和7年度卒業アルバムから、軍事色の写真で時代を感じてみました
満州事変真っ最中の1932(昭和7)年度の長野県木曽中学校(現・木曽青峰高校)卒業記念アルバムより、教練の写真をはじめとする、当時の軍事のにおいがただよってくる写真をご紹介します。一部は自動色付けを試みましたので、現代に引き寄せて雰囲気を実感してください。まずは、学校の校庭での分列行進です。背が高い者も低い者も、同じ歩幅75センチで行進しないと、このように隊形を整えたままの行進はできません。たかが行進ですが、それにはかなりの時間と怒声を必要としていたでしょう。
下写真は、教練銃を使った射撃訓練の様子です。標的射撃用の威力の小さい弾丸を発射する教練銃を使っていて、射程距離は20メートルほどでした。そのため、射撃場所も校内の手ごろな広さの場所を改修して使うことができます。実弾とは違っても、それなりの弾丸を撃つ銃です。射撃練習には十分であり、安全も保ちやすかったでしょう。
下写真は、同じ射撃場所を使っていると思われますが、上写真とは異なり服装が制服のままなので、射撃部の練習写真を、教練の将校も入れて卒業アルバム用に撮影したのかもしれません。
また、行軍や射撃姿勢で待ち構える演習のようなことなど、学校の外でも行っていたようです。こちらは街中での行軍の様子です。
橋の上で射撃姿勢を取る学生たち。小さい町ではありましたが、市街地での演習もしていました。
こうした教練で使う装備は、丁寧に整備して「銃器室」に保管していました。びっしり並んだ様子は、教練銃とはいえ、軍隊の兵器庫のような雰囲気です。もっとも、兵営では居室に並べていましたが。
こうした訓練の仕上がりを見るため、時折査閲が行われました。担当地域にある連隊から将校が派遣されてくるのが普通で、こちらが査閲官です。
なお、教練の指導に当たる配属将校は、学校での教職員や学生の言動にも目を光らせ、思想統制の一翼も担っていたとのことです。軍人には悪いものはいない、軍部はいつも正しいとする考え以外を受け入れない、論議させないということが最大の問題なのです。考えないよう、体に教え込む、と。
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体に教え込むとともに、心にも皇国精神を宿らせる工夫もありました。奉安殿などももちろんですが、こちら、木曽の招魂祭で、在郷軍人会も参加しているようです。学生の緊張感はひときわ高まったことでしょう。
こうした野外に出ての学生の教練や招魂祭などは、一般の人への軍隊への親しみを沸かせる効果も期待できたでしょう。この年、松本市の歩兵第50連隊は上海事変への出動を命じられます。沿線の各駅では湯茶の接待を行い、日の丸を振って盛大に送り出しています。木曽福島駅でも同様で、駅を離れてすぐの場所に大勢の町民が集まり、列車の内外で日の丸の小旗を振っているのが分かります。
普段はバンカラを気取ったりしている学生たちも、こうして繰り返される幾重もの仕掛けで、戦争という機械の歯車としてなじんでいったのでしょう。
今回の写真加工には、以前公開されていたWEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを利用しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼、感謝いたします。