対米戦争、もしやるならばーと政治家の覚悟を問うた山本五十六の手紙、真意理解せず学校に送った国会議員
1943(昭和18)年7月、国粋同盟総裁で衆議院議員の笹川良一は、1941(昭和16)年1月24日に自分あてに届いた山本五十六連合艦隊司令長官の手紙を複製した掛け軸を作り、全国の学校に贈ったようです。表題写真と下写真は、このうち長野県の赤穂農商学校(現・赤穂高校=駒ケ根市)に届いたものです。
そえてあった説明書きによりますと、掛け軸の中央の手紙文の複製は、1941(昭和16)年1月6日に山本五十六と笹川良一が一緒に南洋を視察した際、「山本長官がおられるなら大丈夫」といった意味のことを笹川良一が言ったことに対する山本五十六からの返信ということです。
この手紙は前段で謝礼や日々訓練している将兵こそが主役とした意味のことを書き、いわば謙遜しているのですが、重要な点は、下写真に示した手紙の後半の文にあります(適宜漢字を読みやすく直し、句読点を入れました)。
「しかし日米開戦に至らば我が目指すところもとよりグアム、フィリピンにあらず、はたまたハワイ、サンフランシスコにあらず。実にワシントン街頭白亜館(ホワイトハウス)上の誓いならざるべからず。当路の為政家、果たしてこの本腰の覚悟と自信ありや
祈御自重 草々不具 一月廿四日 山本五十六」
この部分を素直に読めば、「日米開戦となった場合、その戦闘は敵国の首都を占領するまで続く。そこまでやりぬく覚悟が今の政治家にあるのか。自重されたし」といった意味になるかと思われます。これは、アメリカが少しやられたら戦争がいやになって講和してしまうなどということは絶対ないという、逆にまとまった時のアメリカ人の意志の強さや工業力を知っていた山本長官らしい呼び掛けと、中の人は感じました。
しかし、山本元帥戦死、アッツ島玉砕と急速に敗北の道を歩み始めたこの時期、説明文によると、笹川良一はすでに戦死した山本五十六のこの手紙によって「元帥の最後の目的を心肝に銘じ…挺進奉公いたしてこそ(略)唯一の手向けなり」と戦意を鼓舞し「山本魂の振作」を国粋同盟総裁、衆議院議員笹川良一として訴えています。
アメリカと戦争するならば、ワシントンを占領するまでのつもりがなければ終わらないが、あなたは政治家として、その覚悟はあるのかーとした、政治家に対する警告といえる手紙。笹川良一は、そしてこの手紙の内容を掲載した新聞社は、その真意をつかめなかったか。あるいは、単なる精神訓話としてしか受け止められなかったのか。
そして、そんな政治家によって、警告の手紙が国民鼓舞という、逆の意味に使われたこと、泉下の山本五十六はどう感じられたでしょうか。
ところで、大木毅「戦史の余白」(作品社)では、当方で発掘したこの掛け軸について、さらに考察を深めています。上にも書いてありますが、この手紙は新聞紙上に紹介されているのですが、そこからは一番最後の「政治家にその覚悟はあるのか」との部分が削除されて発表されていたとのことです。中の人は、そこまでは確認しておりませんでした。それなら説明文にあるように、外国が山本の気概に震撼したということになるでしょう。さらに、人は死んでからも戦争のため都合よく使われるという点で、山本五十六もその犠牲者になったといえるでしょう。これが戦争の姿です。
そして、これは中の人も承知していなかったのですが、いわば右翼のトップである笹川良一が英米派の山本五十六とも親しく、必ずしも凝り固まった人物ではなかったという指摘がなされています。大木氏は、笹川良一は山本五十六が非常な好戦派と喧伝されたことについて忸怩たるものがあり、その誤解を解き、本当の意思を伝える為、省略のない手紙の掛け軸を全国に送ったとの考えを示されています。
既に笹川良一も亡くなり、その真意をくみ取ることはできません。ただ、このご指摘によって、人物の判断において、できるだけ重層的に史料を読み込み、行動や思考を把握することの大切さを教わりました。また、建て前と本音、そして戦時下という非常時の中での行為には、さまざまな思惑の可能性を考えることも重要なようです。(敬称略)