太平洋戦争末期、いよいよ空襲が本格化するというところで建物の強制疎開が行われましたー防空法に基づいて
密集した市街地に空地を設けたり、広い道路で防火帯をつくったりするのは、火災に対する基本であり、空襲の被害を最小限にするため、「逃げるな!火を消せ!」で悪名名高い防空法によって、有無を言わさず進められます。こちら、1944(昭和19)年5月、東京都防衛局建物疎開課が作成した蒲田区全図の取り壊し建物の予定個所などを示した建物疎開地区図です。
蒲田区の指定は1944年3月から5月に行われています。こうした強制疎開の指定は東京以外にもあちこちで行われています。下写真は、岩手県が出した「建物疎開の指針」で、特に盛岡市を対象として、建物疎開の意義などを説明しています。7月22日から始めるとしていますが、1944年か1945年かは不明ですが、東京都でも5月で計画が出来た程度ですから、おそらく1945年のものとみられます。
長野県でも、1945(昭和20)年7月12日の信濃毎日新聞の記事で、長野、松本、上田、岡谷、諏訪の5つの市で強制疎開を行うとしたことが分かります。記事によりますと、8日に取り壊しの申し渡しをして完了は15日という、ひどいスケジュールです。ネックになっているのは、引っ越し先のないことと、運送の手配がつかないことのようです。諏訪では隣組が引っ越しに協力するなどして勤労奉仕隊の割り当ても済ませて順調だが、長野市は大きな商店などもあり、困難としています。
また、補償金などが安いと明確に書いてあり、このあたりは県のほうで調整したいとしていますが、人的物的なゆとりも考えずに計画だけを進めていたこの戦争をよく表しています。
上写真の8月12日の信濃毎日新聞では、11日に人員疎開を決定し12日中に申告せよと。そしてどうやら第二次強制建物疎開を実施中だったようですが、人員疎開に輸送などの支援を集中させるため9日に一時中止するなど、混乱ぶりがうかがえます。
どこでも運送能力は限られているため、役所の強力な指導が欠かせなかったようです。下写真は、京都の建物強制疎開に関する一連の書類です。
このように各地で進んでいた建物強制疎開ですが、長野県岡谷市出身の童画家、武井武雄の東京の自宅も一部が強制疎開の対象となり、東京を離れることになるのですが、当時あちこちで行われていた強制疎開の様子を「戦中気侭画帳」に残していますので、3点を紹介させていただきます。
警察官の登場に、わずかな戦利品を抱えて逃げ出す人々。捕まった男性も、しかし途中で放免されます。逆に、これほど物不足が深刻だったことも感じられます。
一方、武井は隣組の小川さんに大変よくそろった良い壊し材があるのを見つけます。「これ、警察の旦那方の預かりものと頗りに弁明。ついさっき『政府のもんだぞコラ』と怒鳴っていた声がまだ耳についている。世の中って凡そザットこの様なものであるのである」と記録してあります。1945年3月9日のこと。翌日は大空襲です。
長野市では特に善光寺参道の中央通りで大規模な強制疎開が行われています。現在ではすっかりきれいになって観光客でにぎわっていますが。
県庁や信濃毎日新聞社は重要建築物として、周囲の病院なども大きく壊されました。しかし、かえって目立つとだれかが気づき、今度は屋上に土嚢を積めと。もう、何が何やら、という状況。そして8月13日に長野市と上田市は空襲を受けますが、もっぱら対象は長野駅周辺と軍の療養所、学校工場と、よく調べてあったものです。負け戦とはこんなもの、というのを絵に描いたような、敗戦間際の建物疎開でした。
ただ、空襲に間に合った空地の整備では、このおかげで助かったという証言も、名古屋空襲の記録で残されています。無駄ではなかったものの、およそ泥縄で物資を大量に無駄にし、臣民のことを後回しにした施策であったといえるのではないでしょうか。