日独防共協定に1937年、イタリアが参加したことを受け、森永製菓は何をしたか
既に国際連盟を脱退して世界的には孤立していた日本とドイツ。そんなころの両者が1936(昭和11)年11月25日に調印したのが「日独防共協定」でした。同年11月26日の東京朝日新聞によると、協定は3条で具体的には
第1条 締約国は共産『インターナショナル』の活動に付相互に通報し、必要なる防衛措置に付協議し且緊密なる協力に依り右の措置を達成することを約す
第2条 締約国は共産『インターナショナル』の破壊工作によりて国内の安寧を脅かさるる第三国に対し本協定の趣旨に依る防衛措置を執り又は本協定に参加せんことを共同に勧誘すべし
の内容が公表され、付属議定書として情報交換の委員会設置を決めました。外務省は声明で、世界革命を目指す「コミンテルン」が世界平和に多大の脅威を与えてきたと決めつけ、こうした「赤化」は東洋では中国で特に著しいとし、同じ反共産の立場のヒトラー政権ドイツと協定したと説明。そして付け足すように、ソ連など特定国を目標とするものではないとしました。
1936年といえば二・二六事件が発生し、戒厳令下で広田内閣が発足した年で、政治への軍の意向が強く反映されるようになったころです。紙面にも、7月下旬から交渉を開始したとして、軍部がドイツとのつながりの強化、満州の防衛を視野に入れて広田内閣をつついたのは間違いないところです。
協定の第2条に参加国の勧誘をうたっていたことから、翌年の1937年11月9日、イタリアが参加し国際連盟も脱退、日独伊防共協定の締結となります。そのころ日本は、同年7月7日の盧溝橋事件を機に、中国との戦争を本格化させていました。
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さて、この日独伊防共協定締結を受け、森永製菓株式会社は翌年「日独伊親善図画」の募集を開始します。6月末締切で、秋から3国で展覧会も開くというもの。狙いは不明ですが、話題を宣伝に利用したのでしょう。1938(昭和13)年4月1日の信濃毎日新聞には、その全面広告が載っていました。
その後、信濃毎日新聞の紙面を追うと、翌年の1939年4月14日朝刊に「日独伊親善児童画展 きのうから上田で蓋あけ」との見出しで地方開催の様子を紹介。信濃毎日新聞後援、森永製菓株式会社主催で3日間、上田商工会議所で開かれ、市内の小学校児童でにぎわっているとしています。
児童画展とはいうものの、実は中等学校などの生徒も多数応募したようです。長野県長野市の長野商業学校は、森永製菓株式会社から多数の出品に対する感謝状が贈られています。
後援団体として、文部省、外務省は分かるとして、陸軍省、海軍省が入っているところに防共協定の本質が見えるようです。森永製菓株式会社がどういう狙いで関係団体として後援依頼したのか。あるいは陸軍省、海軍省から手を挙げたのか。見解を知りたいものです。ちなみに、森永製菓株式会社のホームページの「歴史」では1937年の「第1回『森永母の日大会』開催」、1944年の「ペニシリン国産第一号完成」がある程度で、この件は取り上げられていませんでした。
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日本が日中戦争の泥沼にはまり先が見通せなくなっていた1939年、ハンガリーも防共協定に参加。そして5月には独伊軍事同盟が調印される一方、ドイツはソ連と8月23日に不可侵条約を結んで日本に衝撃を与えます。平沼内閣は外交の見通しの誤りを「欧州情勢は複雑怪奇」と声明して28日、総辞職。9月1日、第二次世界大戦が始まります。
近衛内閣の下、日中戦争による物資の枯渇打開と中国への援助ルートを押さえるため北部仏印(フランス領インドシナ)へ軍隊が進駐します。これが米国を大きく刺激し、日本への屑鉄輸出が禁止されます。米国との対立を解消するには中国からの引き上げしかなく、軍部がそれを許さない中、和平を模索しつつも、日本は日独伊三国同盟を締結します。天皇も「騒乱を鎮定し平和を望む意図を同じくする2国との同盟を深く喜ぶ」という趣旨の詔書を出しました。
しかし、この同盟は米英陣営との決定的な対立となり、石油や工作機械など、多くの重要物資を米国に頼っていた日本にとって、将来的に経済制裁による行き詰まりは目に見えていました。軍部が引っ張っただけではなく、天皇も後押しした同盟が、太平洋戦争への序曲となったと言えるでしょう。
こうした歴史の流れの中で、日独伊防共協定を後押しする事業が与えた影響は、微々たるものであるかもしれません。展示会を後援した信濃毎日新聞も、その一端を担っています。ただ、そんな小さなさまざまな動きが多数となり、世論に影響を与え、政府や軍部の支持につながっていったとは考えられないでしょうか。
先を見通すのは難しい。それでも、その時々に、安易に政府に乗せられず、見極めて行動していくことの大切さを教えているように思えます。
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