敗戦翌年の長野市の様子を伝える、隣組回覧常会資料を見るー戦後処理や伝染病と格闘しつつ、食糧確保に尽力
今の日本を作ったのは、敗戦まで生き残り、復員し、戦災や戦時の無理を乗り越えて復興にあたってくださった皆さんのおかげだと思って居ます。敗戦翌年の1946(昭和21)年4月から年末までの長野市の常会に配られた資料から、その雰囲気を見ていきたいと思います。
最初に出てくるのが種痘の連絡。この後も、頻繁に赤痢などの伝染病対策が出ています。食糧が乏しい中、衛生管理も行き届かないので、抵抗力がないとたちまち広がったようです。
そして「兵器武器類の提出」。復員軍人が持ち帰っていないかなどとし、自主的な提出と、捜索の可能性を示しています。そういえば、知人が古い家を買ったら、日露戦争当時の両手握りサーベルが天井裏から落ちてきたということがありましたな。伝来のものだからと隠しておいたのでしょう。
進駐軍にどう対応するか、の注意です。長野市でも不遜の態度をとって不快な思いをさせたとし、礼儀作法をきちんと示すようにと。そして、戦時の影響ですが「道路上の耕作物の撤去」が指示されています。当時の日本の道路はあまり舗装されていなかったので、歩道も道路も開墾しちゃっていましたから。長野市ですら、そんな状態が続いていました。
進駐軍に気を使いつつ、観光都市再建はまず清掃からと訴え。この清掃の指示は、病気対策も含めてたびたび出ています。ごみ、しにょうの処理が追い付いていなかったのもあるでしょう。
そして、空襲に備えた防火用水や掘りまくった防空壕の溜水対策として、不必要なものは除去し、鯉やフナ、メダカなどでボウフラ対策をしようと呼びかけています。実際、長野市中央通りの防空壕は堀っただけで天蓋がなく、大量の蚊の発生源となっていました。今は石畳の観光客が行き交う道路になっています。
そして、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件を起点とし、占領地で没収や略奪したものを申告せよと。太平洋戦争が日中戦争の延長にあることが実感されます。申告とあるので、中身によって対応を変えたのでしょう。
こちらは長いものなので、2点だけ。引き揚げ者への援護運動への参加呼び掛けと、「支那」という文字を使わないようにとの指示です。中華民国から公式、非公式を問わずに使わないようにとの言葉があったと。そして、満州は満州であって満州国ではない、というのが特に長野県では強調されたでしょう。
時々、缶詰や小麦粉の特配があったようです。そして、決して横流しをしないよう、重ねていうと同時に、特別加配ではないので飯米が減ることを注意しています。まあ、もともと不作でコメが不足していたので、小麦粉で代替しようということでしょう。「感謝感激をし」というあたり、ちょっと卑屈なのか、これぐらいしないと国民感情が悪い状態なのか、いまひとつ不明です。
食糧がひっ迫していたのは、下写真のような国民大会が開かれていることでも分かります。参考までに、会場の相生座は現在でも上映を続ける国内最古の映画館として健在ですので、お立ち寄る機会がございましたらぜひ。
一方、長野市には進駐軍向けの土産品販売所がありました。このつづりには数回、出品を呼びかけるこうした回覧がありました。何が受けるか分からないうえ、戦争で消耗しつくしていましたし、進駐軍への警戒心もまだまだ高かったことも感じられます。
選挙人名簿の縦覧と、漬物用大根と塩の配給の連絡です。前年に衆議院議員選挙法が改正公布され婦人参政権が規定されていますので、選挙人名簿には、ようやく女性の名前が掲載されているはずです。戦後の大きな変化が感じられる回覧です。そして、冬支度。しっかり生き抜いてきてくださった、先人たちに感謝したいと思える資料です。