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戦時下と敗戦間もなくの長野県の農村や祭りを描いた本は、貴重な民俗資料で戦争の記録 「信濃の子供 上巻」編
長野県農会は太平洋戦争の最中、設立45周年の記念出版として、矢崎重信に依頼した教育画集「信濃の子供 上巻」を1944(昭和19)年3月に発刊します。表紙と裏表紙を含めて25枚の写実的な油彩画で、生き生きとした農村風景を1年ほどかけて長野県各地を回って描かれています。戦時下ならではの共同炊事や勤労奉仕などのほか、松本の御盆行事「ぼんぼん」など、戦争があってもこれは変わらなかったんだと嬉しくなりました。
刊行の趣旨では「今農村が大東亜戦争下に種々の悪条件を克服して食糧増産の大使命を実現しようとするには、どうしても従来の政治経済の力以外に文化の力を村人達から引き出すことが急務である。三千年来の日本文化を培養し伝承し来った皇国農村こそは実に日本人の故郷である」などとし、米英文化の模倣を非難しつつ「伝統を持つ系統農会が農業会への米英撃滅体制に発展的飛躍をなすに当たり」刊行したとしています。「米英撃滅戦下に置ける文化運動の一翼」と位置づけますが、実際は緻密な戦時下農村の記録にほかありません。
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下巻も翌年発行の予定でしたが戦災で焼失し、敗戦後の1947(昭和22)年3月、長野県農業会が「信濃の祭」として、戦中の時期を含む行事の様子を記録した画集を発行しています。両者を2回に分けて紹介し、戦時下の様子を知る一助にと期待しています。
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しょっぱなは「日本第一大軍神」である「諏訪神社」です。入営を間近にした兵士の参拝に子どもたちが集まって一緒に参拝です。
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こちらは上高井郡穂高村内山(現・飯山市)での、楮の雪による凍結漂白作業中。内山和紙と言えば、今でも飯山の特産です。
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「大東亜戦争下、軍用馬としてお国に尽くすは今ぞと村人たちはこぞって改良、錬成に努力している」とあるが、木曽馬は粗食に堪え力もあるが胴長短足のため、大型化を求める軍は、木曽馬を根絶やしにしようとします。しかし、唯一、神馬として奉納され生き残った雄の木曽馬が、血筋を現在まで残すことになります。
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農村では忙しい時、少しの手でも大切。子守をし、集落の食事をまとめて作る共同炊事は、男手が少なくなった農村で拡大します。ここでは飯山町(現・飯山市)の女子青年団4人が奉仕活動で80人余りの食事作りをしているところです。
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中央に翻る日の丸が、勤労奉仕の印。屋代高等女学校の生徒たちが、麦の刈り取りをしています。場所は埴科郡五加村(現・千曲市)。
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蚕を飼育していた農家のごく一般的な風景。繭をつくる直前になった蚕は、そのままだと平面の眉を作るので、藁で立体的な空間をつくった「蔟(まぶし)」に一匹ずつ入れてやる。そして繭ができたところを、羽化する前に子どもも一緒に一家総出で取っているところです。場所は小県郡浦里村(現・上田市)
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場所は岡谷市の丸興製糸株式会社小澤工場。「繊維国策をしっかと胸に刻んだ乙女等はここが米英撃滅の戦場よと、心魂を打ち込み機械の回転に寸分の隙も見せない緊張さである」
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「盆盆とても今日明日ばかり…」と郷愁を含んだ歌を歌いながら、少女たちが手に手に提灯を持ち、松本城(松本市)周囲の町々を練って歩く。発生の歴史ははっきりしないというが、今でも受け継がれている伝統行事が、1943年の夏もきちんと行われていたことは素直にうれしい。
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下伊那郡山吹村(現・高森町)での柿もぎの風景。現在は市田柿の産地として知られる。日中戦争発端の盧溝橋事件、太平洋戦争のガダルカナルの戦いでそれぞれ指揮を執った一木清直の故郷でもある。
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農会では、この画集から5点を選び、慰問用の絵葉書としています。時局柄、多色印刷ではありませんが、雰囲気をよく伝えています。当方所蔵のこの画集は後半の3枚が欠損していますが、そのうちの1枚、上田城と麦踏みが絵葉書に入っていました。
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上田城と麦踏みの絵では、櫓の上に2機の飛行機を配し、子どもがそれを見る構図としています。上田飛行場では、若い飛行士が訓練を重ね、やがて特攻機にのるようになっていったのです。
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2024年7月4日 記
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