戦争ごっこの「装備品」と日中戦争当時の木曽の「戦争ごっこ」風景
親戚が兵役に就くなど身近に軍隊の存在を常に感じ、雑誌類や商店のチラシも軍事モノを扱っていた戦前、子どもたちの遊びの花形は、やっぱり戦争ごっこです。こちら、アルミ製の本格的な鉄兜で、日中戦争前の品でしょう。何度も押し寄せる金属類供出の掛け声に抗い、大事に隠し通したのでしょうか。
一方、こちらは紙製の「鉄兜」。渋を塗って固めるなどしています。こちらはあごひもなど内装品も残っていて、大事に使ったのかもしれません。
そして兵隊さんの象徴の小銃のおもちゃ。いろんなタイプがあったでしょうが、木製の台に金属製の銃身、こうかんを引くように銃の右の取っ手を引くと止まって発射準備完了。コルクの玉が正規品でしょうが、いろんなもので弾を代用したでしょう。銃身の先端に詰めておき、引き金を引くと発射です。
こうした装備はそれなりに値段も張ったことでしょう。しかし、こうしたものを揃えれば、例えばこんな格好で「歩哨気分」を気取ったりできたでしょう。
ほかにも、指揮官を気取るならサーベルが欠かせなかったでしょう。こちらもアルミ製で、なかなか頑丈で細かい作りも凝っています。
こういうおもちゃで遊んだのは、どんな子供たちか。こちら、時期は第一次上海事変ころの出征兵士見送りに集まった長野県読書村(よみかきむら・現・南木曽町)の子どもたちです。男の子は手や腰にそれぞれ木の枝の皮をはいでつくった「木刀」持参です。
では、子どもたちのこのころの戦争ごっこは、どんな雰囲気だったのでしょうか。日中戦争中の1938(昭和13)年に発行された長野県福島町(現・木曽町)の木曽高等女学校(現・木曽青峰高校)公友会発行「校友 第十号」掲載「可愛い兵隊さんたち」(4年・原喜ゑさん)より、転載させていただきました。現代では差別用語とされる表現を使っていますが、歴史の記録としてそのままとしました。
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突然、窓下に起こった賑やかな声…。射て!パチパチパチパチ、チャンコロなんかやっちゃへ!(略)7つ、8つ位の男の子達が7,8人、2組に分かれて、激戦の最中だ。いづれも棒切れを持ち、帽子を後ろ向きにかぶって(略)。時節柄、こんな子供の遊びまで兵隊ごっこだ。ツッコメ!などと怒鳴りながら、棒切れを振り回している。今度は白兵戦か。叩かれた者は斬られたんだと言って、土の上へお構いなしにゴロリと横たわる。仕様のない人たちー。
その中、「お前、今俺に斬られたぢゃないか…。早く死ね」「チャンコロなんかに斬られやすかい」「チャンコロはお前だぞ!早く死なんかー」「やだい俺らチャンコロぢゃないぞ」なんて言い争っているのである。(略)どちらも日本軍のつもりだ。小さい子供も支那兵と言われるのはいやなのか(略)。その中に気の短そうなのが、相手の子を本当に強く叩いてしまった。叩かれた方は、思い切り大きな口を開いて「ウワーン」と泣き出した。弱い兵隊さんだこと。叩いた方は「なーんだ、泣くのが支那なんだぞ」と偉そうに言ったが、それでも後が怖いのか、スタコラ逃げ出してしまった。「オヤオヤ、あんな卑怯な日本兵ってあるかしら…。」私は吹き出しかけた。
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以上で転載終了。何気ない女学生の文ですが、今となっては貴重です。戦争ごっこはこのあと泣いている兵隊さんを囲んでなだめたり逃げ腰だったり。木の棒が武器の主役で、鉄砲にも機関銃にも刀にもなるという万能性を発揮していました。とはいえ、立派なおもちゃもほしかったろうなと、子どもごころを想像してみました。
泣いたら終わり、という「ごっこ」程度が一番。本当に斬られ、撃たれる戦場の生の姿を知らないので、無邪気に遊べるんだろうなと。決して、おもちゃが悪いんじゃないよね。
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