長野市初の防空演習は1932(昭和7)年。本番はその11年後に。
日本で防空演習が最初に行われたのは1928(昭和3)年、大阪においてでありました。長野県では満州事変下の1932(昭和7)年5月、長野市で行ったのが最初になります。中の人は運よく、長野市防護委員会による防空演習計画書と、演習要図を手に入れました。こちらが演習要図です。
長野駅と付属の工場から善光寺にかけて、現在の長野西高校あたりまでが演習の中心地となっています。90年以上前の地図ですが、現在の長野市と比べても長野駅から善光寺門前に至る当たりはそのままです。要図には避難所や重要防護建造物、機関銃、高射砲といった対空設備の場所などが記載してあります。
防空演習要図を見ると、防護司令部が善光寺東側の城山に置かれ、高射砲を設置し、避難場所と防護支部を城山小学校に設定。善光寺は「重要防護建造物」の一つとして指定してあります。破線は防護区域の境界線で、いくつかのブロックで責任分担する方式で、それぞれ防護施設や避難所が設けられました。
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この演習は長野市長が率先して企画、5月22日に実施しました。「長野市防空演習計画」の目次を見ると、爆弾投下実演、空襲と対空、消防や救護、灯火管制を行うといった内容で、一通り網羅していることが分かります。
演習計画では毒ガス防護の演習を重視し、かなりのページをさいて毒ガスの紹介をしています。
これはまだ戦闘機が複葉機の時代で、爆撃機も同様にそう大きな機体が無かった当時、少数の爆弾で効果を上げるため、毒ガスの使用が見込まれていたことを示します。第一次世界大戦で初めて毒ガスが使われた現実に加え、通常の爆弾よりも、毒ガスならば多くの人に関心を持たれるだろう―という軍部の狙いがあったともされます(宣伝で、ほとんどの侵入機を叩き落とすことになっていましたしね)。第2次世界大戦当時、各国とも毒ガスへの備えはしていました。しかし、実際には飛行機の進歩により、大量の爆弾や焼夷弾をばらまく空襲がなされるようになったのはご存じのとおりです。
ちなみに、日本本土への初空襲は日中戦争下の1938(昭和13)年5月20日の中国軍機によるビラ空襲で、5月22日付信濃毎日新聞は「徐州陥落の隠ぺいに九州へビラ空襲 児戯に類す狂乱策」としつつ、4段見出しで大きく報じています。それなりに衝撃が大きかったようです。
その後も防空演習は何度も続けられ、日中戦争の泥沼化もあって訓練を通じた戦時体制の組織化が進み、運動会の種目にも、担架運搬など防空演習を題材にしたものが登場しています。体で戦争遂行に力を尽くすことを浸透させる役割を担ったのが、防空演習だったでしよう。
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長野市は1945(昭和20)年8月13日、上田市とともに真昼間、米軍艦載機の空襲を受けます。灯火管制もガス防護もあったものではなく、機銃掃射やロケット弾の攻撃などで少なくとも47人の方が亡くなられます。
特に長野駅周辺は鉄道の要衝であり機関区もあったことから集中攻撃を受け、機関車を退避中に殉職した方もおられました。最初の防空演習で重要防護建造物とされていて、その通りに狙われましたが、十分な防護は全くできませんでした。2日後、終戦の詔書が放送されるのですが、この空襲の後には、もっと激しい空襲があると逃げ出す人が相次ぎ、長野市街は窓まで外されて空っぽの街になっていました。