中部軍司令部監修の月刊誌「国民防空」を読む(上)ー空襲の七つ道具とは
財団法人阪神航空協会内に事務所を置いた国民防空出版協会が、1939(昭和14)年7月から少なくとも1944年9月まで発行を続けた月刊誌「国民防空」を4冊だけですが入手しました。太平洋戦争前のまだ余裕の感じられる号から、緊迫してきた1943年のものまであり、内容も多岐にわたるので、少しずつその時期の特徴をつかんで紹介していきます。(上)は1941年9月1日発行の第3巻第9号を取り上げます。
目次を見ますと、民間防空の大切さを説く話、隣組防空訓練の指導要領などに続き「標準型待避防空壕築造費」「待避防空壕設計例」と、以前お話した、一時的に爆弾の破裂をしのいで消火に駆け出すための「待避所」が防空壕であるとの精神は、このころから定着しています。そのうえで空爆への対処をヨーロッパの戦場の例などをあげて説明。そして家庭婦人、子ども対象のページもあり、連載小説を載せる余裕もありました。広告も多数ありますが、これはまたの機会にまとめて紹介しましょう。
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この号からは、都市空爆対策をいくつか紹介しましょう。まず、50機の編隊による空襲の規模を想定し「1家庭に1焼夷弾」という計算をしてあり、これが同時多発で発生するとしています。
そして関東大震災を例に挙げ、東京付近では178カ所から出火し83カ所は消火したものの95カ所から燃え広がったとし、空襲火災はより規模が大きいとして隣組防火が重要と説いています。そして従来の防火訓練がひとつの焼夷弾消火に数十人も集まって実施してきたのを実戦とかけ離れているとし「一人一弾主義」を打ち出しています。焼夷弾を消せなくとも、他へ燃え広がらせなければよいとし、最終的には「防空精神」として隣家を護る心、必勝の信念を説くのでした。結局、火の中に飛び込む胆力を求めるのですね。
しかし、これだけで火の中に飛び込んでくれるわけではないので、今度は焼夷弾は怖くないという記事が並びます。
さすがに説得力に欠けるので「一人で一個の焼夷弾を消火する方法」と題し、徳島県の警防団の実験報告書がありました。
従来の濡れ筵と砂だけでは1人で1個は消せないとし、叺の中に砂(約2㌔入りと約10㌔入りの2種類を用意)を入れ、口を閉じ、太い縄で持ち手を作った「防火蒲団」を考案。5㌔のエレクトロン傷痍材を焼夷弾代わりに使用、その上へまず急いで軽い防火蒲団を載せ、まだ噴き出している方向から重いものを載せ、中央から火が出たので砂をもう一度まいて消し止めたとしています。
さらに「消火七つ道具の考案」として、手許にある道具より、もっと効果のあるものを発案し、さらにこれを参考に良い発明をとした記事で補強。
「薬液火たたき器」ー不燃性の箒のようなもので、火元をたたくと先から消火液も出る。消化液は背中にしょってつないでいる。
「消火棒」ー細長い金属製の管の先端に小穴がいくつもあり、火たたき器と同様、背中にしょった消火液のタンクにつないであり、狭い場所や山林火災に使うと。
「防火ふとん」ーイギリスで用いられている釜に柄をつけたものがあるが、これでは日本の畳では使えないので、不燃性の蒲団のようなもので弾体を覆い、内面中央部にあらかじめ装備しておいた消化液で自然と消す。長さ1・3m、横1mで防火テックスとおがくず、重曹とおがくずの二重袋でさらに不燃性の紙布で全体を覆っているとか。
「防炎耐火面」(略)
「婦人防弾帽」ーファイバーや紙くずを再生加圧した鉄兜状のもの
「焼夷弾捕獲器」ー2個の車輪の付いた枠台と耐火木材の箱で、長柄を付けて前進させ、火点に達したら紐を引くと箱が前へ倒れて火点を覆うというもの。さらに紐の操作で閉じ、完全に薬剤の中へ引き入れられ、次々と処理できるというもの。(下写真参照)
まあ、役に立つかどうか、は空襲の規模次第で、空襲規模がより強大になると、とても追いつかないのは目に見えています。また、消火剤、消化薬液といった言葉が盛んに出てきますが、一般家庭に充分な量を行き渡らせるような化学工場の余裕は全然なかったことでしょう。何しろ、軍需に手一杯でしたから。
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最後に、この号の「婦人と家庭」欄では、「捕虜になる心理ー日本人には理解できぬ」との中部軍報道部佐々誠少将の文章が唐突に入っています。各国の兵士が捕虜になるのは義務を果たしたからという権利義務の考えとし、戦陣訓で無理やり決められたのに「一兵残らず陛下の万歳を叫び七生報国を誓って死んで護国の鬼と化す(略)どこの國の軍隊といえども真似のできないことである」と。なぜこの文を入れたのか。もし空襲の場合は、陛下のために死ぬまで消せという暗示ではなかろうかと。
この一文で、日本の防空は国民ー臣民を守るものではないという性格が明瞭に表れています。
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