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心の性別についての雑多な思考


前置き

宗教的思索を通して心に性別は無いと考え至ったところであるからそれを書き留めておく。論考するテーマが現代社会におけるセンシティブな問題を内包するものでもあるから敢えて難しい文体で書き進める。丁寧に読めば言わんとすることが分かるようには書いていくが、安易に表面だけの理解に囚われないよう留意していただきたい。本来の人間の在り方として心に性別が無いと論述するものであって、現代社会における性的マイノリティを始めとした諸問題に対する何か抗議のような意図や、他者を攻撃する意図は無いこともここに書き記しておく。むしろ、これは各問題を解決に導く一つの方法であると主張してみたい。

また、身体と心を二つに分けて論じていく。仏教的な価値観では、身体はそのまま心であり心はそのまま身体であり身体は心でなく心は身体でないと言えるが、説明が煩雑になる恐れがあるので、独生独死の自己というところを心として、一般社会で言われるところの身体と心という二元論的な区別をしたままに論を進める。

大体の言いたいことは【小考】に書いてあります。

本題

性別について


身体には性別がある。

「性」を「別つ」ところの「性別」、つまりは「男女」であって、(両性具有等の少数例外はあるかもしれないが)大局的には身体は二つの性で分けられる。「男」と「女」だ。

(ここで「男」と「女」として、「女」と「男」としていないことに無意識的な差別意識が働いているかと言えばNOと答えたい。一般社会における通念ということがあり、今回はよく語られる語順に従って表記したところである。この語順をどうするかだけでも悩んで考えて敢えて通念的な語順を選択したということを申し添えておく。)

では心に性別はあるだろうか。

私は本来は心に性別は無いと考えている。しかし、社会における現状はそうではない。定義するような意味合いでのそうではないではなく、通念的にそうではないと捉えられている、という方が正しいだろうか。とにかく、社会通念的には心に性別があるとされていること自体は認めた上で、私は心に性別はないと考えているのである。

そもそも、「心の性」というときの性という言葉は性別という意味で使われているから「性」を「別つ」の意義に従って、二分か三分か四分か五分かは分からないが、「心の性」をいくらかのグループに分割してそれぞれの集団を作るような言葉であり、これは確固たる何らかの違いを持つ性が相対的に、少なくとも2つ以上の性が並列的に存在しなければ性、または性別とは言えない。

身体的性別は外見的特徴や染色体によって明確に分けることができる。これは科学的手法によって行われていて、身体に性別があることは社会通念としても認められているだろうと感じているところである。
では心の性は外見的特徴や染色体や他の何かを基準として分けることができるだろうか。

NOだ。分けることができない。心は数値化できない。心は見ることができない。客観的に観察不可能な「心」は分析の対象になり得ない。

しかし、社会通念上は心に性別が存在するかのように扱われている現状がある。

これについて「心の性が男」というテーゼから考えていく。

心の性について


「心の性が男」というテーゼは次のようなことを示している。

「男」であると思っているところの自らの「心の性」の属性を持つ「心」は「身体的性別が男である集団が持っていると想定するところの平均的な心」と相似しているだろうと感じている・考えている。

つまり、「心の性が男」というときには、自らの心の性について相対的な判断を行っていて、さらにはその際に判断の根拠とする素材は、【社会における身体的性別が男である集団が持っているだろう心は男である】と疑いなく仮定したところのものだ。これでは判断のための素材からおかしいことになる。仮定したところのものを素材として主観的に自らの性を判断していて、これを例えるならば、沼地に基礎を作らずに家を建てるようなものだ。出来上がった家は砂上の楼閣である。真実でないからどこかで齟齬を起こす。実際に数多の問題が現代社会に噴出している。

「心の性が女」というときにも同じである。

「身体的男が持っているだろう男の心」と「身体的女が持っているだろう女の心」は、言うなればでっち上げられたものであるのに関わらず、これを判断の素材としている現実がある。

心の性はこの仮定したところの性別のどちらかに必ず所属するものではない。

「身体的男が持っているだろう男の心」を「男」、「身体的女が持っているだろう女の心」を「女」と便宜的に読んで実際のところの心の性を考えると、男100%もいれば女100%もいるけれど、男90%に女10%を併せ持ったり男80%に女20%を併せ持ったり男70%に女30%を併せ持ったり男60%に女40%を併せ持ったり男50%に女50%を併せ持ったり男40%に女60%を併せ持ったり男30%に女70%を併せ持ったり男20%に女80%を併せ持ったり男10%に女90%を併せ持ったりすることもある。さらにこれは変化しない固定された属性でなく、時間的にも変化しうる、様々な方向にグラデーションを持つものである。

このグラデーションを無視して究極的に二極化させた言論が「心の性別は男と女の二つだ」であり、これ自体は現代の社会でもしばしば糾弾される意見でもあるが、それ以前に私は「心に性別はない」と主張したいのである。

何がそう思わせているか


少し話を戻して、「身体的男が持っているだろう男の心」と「身体的女が持っているだろう女の心」というところを掘り下げる。

存在すると仮定されたこの二つの心の性別が何によってそう仮定されているかを考えると、その仮定する主体は主観社会の二つがあるように思う。そして、後述するが、主観にそう仮定させるところの主体がまた社会であるから、究極的には社会一つに集約されるだろう。

「身体的男が持っているだろう男の心」と「身体的女が持っているだろう女の心」を仮定してモデル像を作り上げるのはそれぞれの主観である。主観であるからこれは人それぞれに異なったモデル像を持つ。人によって「男である心」と「女である心」の定義は違う。簡単に言えば「男らしい心」と「女らしい心」の定義は人によるということである。

そして、このモデル像を仮定する過程において社会の影響を多大に受けることを指摘しておきたい。生育環境、つまりは主観を取り巻く社会の影響を受けて、これが「男である心」だ、これが「女である心」だという定義がそれぞれに作られていくのである。だから、それぞれに定義の細部は異なるが、同じような文化的背景を持つ実存的な人間の集団においては、大枠は同じようなモデル像を共有しているだろうということも言える。

本来(本来という言葉自体も定義するところが難しいが)、人間の心に性別は無い。しかし現実問題として私たちは心の性というものを存在するものとして考えていて、それは社会に多大な影響を受けて形成された「男の心」・「女の心」という仮定のモデル像を根拠に判断されたところの不確実なものである。仮に「男の心」・「女の心」という仮定を疑わなかったとしても、心には性のグラデーションがあるため、線引きをしてどこかで分けること自体がおかしな話である。

心に性別が無いと言っても、私たちの生きる現実社会は心に性別があるものとしているから、これを無視することはできない。

小考

私は宗教的思索を通して心には性別がないと考えるに至ったが、それ以前は、社会通念上そうであるとされているように、心に性別があることを疑ったこともなかった。「身体は男で心は女」「身体は女で心は男」を始めとした性的マイノリティと呼ばれる存在を、心に性別があるという前提を疑わずに、そうあるものだと捉えていた。しかしどうもこれでは差別的な問題が絶えない。心という外から見えない対象に対して共通した前提の無いまま議論がなされていても言葉遊びのようなものではないか、どこかに解決の糸口が無いものかとぼんやり考えていたところではあったが特に真摯に向き合うようなことはしていなかった。ところが自己存在を見つめ直すという、いわば相互管理社会に反した個人的行為であるような宗教的思索を行う中で、そもそも自己(心)には性別が存在しないのではないかと気づきを得た。この気づきを共有することにも多少の意義があると私は信ずる。多様な文化的背景を持つ実存的な全人類がみな心に性別が無いと考えるようになれば、現代社会における性差別問題のうちで内面に関わるいくらかは解決できるようになると思う。身体的には男であっても心の性は自己そのものであるから、ピンクのランドセルを選んでも誰にも何も言われないのである。身体的には女であっても心の性は自己そのものであるから、仮面ライダーを好んでも誰にも何も言われないのである。身体的性別は依然として区別されるが、自己に依るところの行動が「男らしい」とか「女らしい」とかの制約を受けない世界がそこにある。

宗教が力を持たない時代であるので理想論の一つのように見えるだろう。宗教家が自己ということについてもっと述べていくべきでは無いかとも思う。各々が自己存在について考え始めるその先に、互いに他者を受容し合う心豊かな社会が開けると私は信ずる。


最後まで読んでいただいたことに感謝します。不勉強な身でありますから誤字や言葉の誤用があるかもしれません。コメントで御指摘ください。

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