蛇13年 蛮軍→趙燕領欧亜攻略戦
☯時代背景
蛇12年に趙燕国は蛮国に侵攻を繰り広げた。その総大将は白蓮大将軍でその侵攻は成功すると思われた。
しかし、蛮国は新たな筆頭将軍に就任した相高によりなんと白蓮軍が撃破されて、白蓮軍は敗走してしまった。
これを受けて蛮軍は蛇13年大規模な作戦に出た。軍を三方向に分け、趙燕領に侵攻した。しかし、その三方向とも筆頭将軍の相高や他の有力将の姿は無かった。
各軍の総大将は下図の通りである。
このように三方向に分けたが、①と③戦は開戦早々総大将が討たれ、敗北した。しかし、②戦のみ蛮軍が持ちこたえて、その援軍として相高をはじめとする蛮軍有力将のすべてが出陣した。
そして今回の戦況中継は②戦について記した。
☯1日目
先に侵攻した蛮軍を紹介する。
・総大将:陀早鱗将軍 (10)
・副将:隋茶大将軍 (13)
・第一軍長:仙鵬将校 (6)
・第二軍長:隋游将校 (6)
以上の4将で構成される。
次に防衛する趙燕軍を紹介する。
・総大将:天童大将軍 (13)
・副将:覇桜花大将軍 (13)
・第一軍長:張淡大将軍 (12)
・第二軍長:曹包大将軍 (11)
・第三軍長:李博大将軍 (11)
以下、将軍6名、将校2名
総勢13将で構成される。
圧倒的蛮軍の劣勢の中始まった、今回の戦は先鋒として派遣された陀早鱗将軍によるものだった。誰が見てもわかる、圧倒的劣勢の中に蛮軍の兵士は恐れを抱く者も少なくなかった。
しかし、蛮軍の指揮官は本国より開5日以降に援軍がやってくる事は分かっていたので、何が何でも開戦4日目まではこの4将で死守せねばならなかった。
一方、これを守る趙燕軍の総大将は、先の戦で蛮国の元筆頭将軍の馬豹を討った天童大将軍であった。
以下当時の布陣図である。
蛮軍の数こそは少なかれど、副将に大将軍の隋茶が同伴している側面から考えると、22番領への侵攻が本命の様である。
なので総大将の陀早鱗は長期戦に持ち込むべきであったが、なんと総大将自ら最前線に立っていた。
好機と見た天童もこれに呼応し、最前線に立った。
天童も馬豹を討った自信があった為、余裕をもって陀早鱗と刃を交えたが、陀早鱗は天童の想像以上に武力があった。
そのため開戦早々一太刀貰い、天童は一度後退した。結果として将軍格の武将が大将軍に手負いを与え、後退させたのは大いに蛮軍の士気を上げる形になった。
総大将を後退させる為に第二軍が前進し、何とか陀早鱗を食い止めた。
同時に両軍精鋭軍も衝突した。
以下、当時の布陣図である。
☯2日目
天童は陀早鱗を豪将と認めると同時に勝利を確信した。
初日同様、天童は最前線に出て陀早鱗と交戦しに出た。
これを見て、もちろん陀早鱗は応戦し、またもや天童に手傷を負わせた。
そして、天童は初日同様本陣めがけて撤退しだした。
当時の布陣図は以下の通り。
ここで初日から、蛮軍に食い込んでいた張淡軍が反転して、陀早鱗の背後より迫った。
その結果、陀早鱗は挟み込まれ酷い手傷を負ってしまった。完全に趙燕軍の策略にはまってしまった。
もちろん、蛮軍もこのまま静観する訳でなく、既に精鋭軍が動いていた。
精鋭軍を率いる隋茶大将軍は、張淡軍の背後をすでに打っていて、陀早鱗を包囲する趙燕軍は早期に退散してしまった。
しかし、開戦2日目でかつ劣勢の状況で援軍を待つ立場の蛮軍からすれば、総大将の酷い手傷はかなりきついものがあった。
以下、当時の布陣図である。
☯3日目
昨日策にはまった蛮軍総大将は、本陣まで下がって回復に努めた。
代わりに大将軍の副将、隋茶が長男の隋游を脇に添えて趙燕軍を迎え撃つ体制を整えた。
蛮軍が立て直している隙に、趙燕軍は大いに蛮軍を攻略していった。
以下、当時の布陣図である。
隋茶大将軍は号令をかけ、目の前に立つ趙燕軍総大将を狙った。
天童総大将はこれを予期していて、十分ひきつけた後に、脇の曹包と共同し、隋茶を挟み込んだ
これだけでなく、趙燕軍は右翼軍を攻勢に回した。
狙うところは後方に下がった蛮軍総大将であった。
趙燕軍右翼の覇桜花軍一行は、真っ先に総大将の陀早鱗を狙った。
蛮軍にとっては完全に虚を突かれた攻撃となり、副将一行はたじろいだが、陀早鱗は想定よりも奮闘した。
圧倒的多勢に対して、討ち取られることなく何とかこの攻撃をも持ちこたえた。
以下、当時の布陣図である。
☯4日目
開戦3日目は趙燕軍が勝利を確信できるほどの奇襲を繰り出したが、なんと耐えられてしまった。
しかし、もちろん蛮軍総大将は無事ではなく、命からがらの状態となってしまった。
雌雄を決するこの4日目の両軍の軍には多大なる緊張の波が広がっていた。
蛮軍はこの日を耐えられなければ敗戦は明白で、逆に趙燕軍は弱り切った蛮軍を討伐せねば、援軍が到着してしまう事を察していた。
そして、趙燕軍は数の利を活かして、蛮軍の全体を包囲することに成功した。
以下、当時の布陣図である。
同時に蛮軍には一つの吉報が届いた。
ここを耐え抜けば、筆頭将軍の相高軍神率いる大軍が援軍に馳せ参じるとの知らせだった。
この知らせに蛮軍の士気は一気に上昇し、蛮軍の防衛陣は人数の割に堅固な事この上なかった。
趙燕軍は落とせぬことに業を煮やしていた。
なぜたったの4将で構成される蛮軍を攻め落とせないかと、総大将の天童はなおさら苛立っていた。
更に誰一人の首も上がっていないと来たら、趙燕国に帰る顔がないと恥じていた。
どれだけ挑発しても蛮軍は守りを崩さず、耐えていたため、両軍大きな動きは無かった。
その中でも数人の将が蛮軍総大将の元にも迫ったが、数手のうちに引いてしまった。
もういよいよ戦の佳境となってしまうところで、夕暮れになり両軍一度引いていった。
既に蛮軍の背後から援軍が到着する知らせも両軍入り、勢力は一気に逆転した。
☯5日目
この日より、蛮軍に援軍として計28将を派遣した。
そして、それを指揮するのは筆頭将軍の相高軍神である。その予備隊長には国内二将の南郷政君軍神も同伴した。
こうなれば趙燕軍は圧倒的劣勢に追い込まれた。
既に天童総大将も手負いで、趙燕軍は防御の陣を取った。
以下、当時の布陣図である。
趙燕軍は今や蛮軍の半数だが、勝機はあった。
蛮軍総大将が今や機能不全並みの負傷している点である。いくら劣勢であろうと、総大将を討てば勝利な為である。
まず、天童は相高の出方を伺った。
しかし、相高は想定よりはるかに激しく攻撃を行った。
相高と南郷政君の猛攻は凄まじかった。
相高と対峙する、曹包、覇桜花大将軍の両将までも一挙に退け、趙燕軍本陣にまで迫った。
対する政君も早急に趙燕軍左翼の退路を断ち、張淡、李博軍を討った。中でも張淡軍は激しく追討された。
以下、当時の布陣図である。
焦燥しきった張淡は撤退しようとしたが、前方より蛮軍の精鋭軍は迫り、その末端の将校である嬰瑠央将校により討たれてしまった。
長きにわたり、両軍犠牲の無かった戦だったが、これにより最初に犠牲になったのは趙燕軍であった。
しかも軍長を失ったのは大損失である。
張淡は趙燕国建国の勲郎者の一人である張唐の息子であった。父が戦場で討たれ、息子も大将軍に昇格するも、13年にて討たれる結果となってしまった。
☯6日目
張淡亡き後、第一軍副官の朱輪将軍を指揮官に立てた。
そして、この犠牲を重く見た趙燕軍は、守りに徹するのではなく打って出る事にした。
まずは第二軍の曹包を急襲させた。
その結果、なんと蛮軍第一軍長の仙鵬将校を一太刀で討ち取ってしまった。
しかし、これは曹包にとっては苦境であった。
蛮軍第一軍は崩壊したものの、南郷政君は反転し、追撃に出た。
その結果、政君がまず曹包に手傷を負わせ、追従する屯諒國将軍が曹包を討ち取ってしまった。
ここから趙燕軍の崩壊が始まっていった。
以下当時の布陣図である。
曹包の副官であった厳妙将軍は指揮官にとって代わり、退却した。
そうすると、趙燕軍の最前線に立つのは朱輪将軍のみとなった。流石に、三方位からの猛攻には耐え切れず自然と後退してしまった。
勿論これを蛮軍総大将は見逃さず、自らも前進した。
総大将の天童を守る、朱輪も敗走し、覇桜花大将軍のみが奮戦するしかなかったが、蛮軍の猛攻には力及ばずであった。
天童までの道のりが開いた時、すかさず相高軍はこれをめがけて突撃した。
その勢いはまさに電光石火の様で、趙燕軍はこれを止める事が出来なかった。
相高自ら守りを打ち破り、趙燕軍本陣に援軍で同行した多数の将を突撃させた。
そして、蛮国の六将である太鳳の長男である太孟将軍が趙燕軍総大将の天童と交戦した。
結果、太孟が天童を討ち取り、ここに蛮軍の勝利が確定した。
以下、この戦の戦闘ログである。
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