おんなのこ。でありたいことは、自然発生的か、形作られたのか。(追加予定アリ)
おんなのこらしくいたい、はダメか。
最初に私の立場を表明しておくと、私は、おんなのこらしい肯定派だ。誤解を招きたくないので、言っておくと、「おんなのこらしくあれ」は否定派だ。
ふわふわなスカートも(なんならロリータも)、ぱっちりしたマスカラも、ぷるんとしたリップも、柔らかな薄紅の頬も。かわいい。大好きだ。
おんなのこの写真を撮る時も、できるだけその子がかわいく写るようにするし、レタッチもするし、写った人も喜んでくれる。
ただ、昔から言われていたような「おんなのこらしい」ものがそのまま好きなだけだ。
でもなぜか、生きづらい。言いづらい。少しでも言い方を間違えると、「おんなのこらしくあれ」に異論を唱える方面から、怒られそうな気がする。(そういう活動をしている方のことは、むしろ、クールだとおもっているからなおさら。)
最近の社会で生きやすい人はいるのか。
みんなが必死に、生きやすくなろうとして、生きづらくなっている。
過渡期。
この過渡期、終わりが来るのだろうか。例えば男女の話でいうと、
男尊女卑→いやいや女性も活躍→ていうか性別って男女だけじゃなくない?→ていうか女性頑張ろうって何?女らしくなきゃいけないの?
選択肢が増えすぎて、逆に困る。アイデンティティを保つためには、自分がなににあてはまるのか、決めなきゃいけない感じがする。「私は、男性が好きな女性です」とか。「そうは言っても私、女の子を好きになるポテンシャルあると思う。」これは私の本音。決めきれないよね。
自分を主張するには、自分の立場を決めなければいけない。でも自分って、もっとゆらゆらしているものではないのか。とびきりかわいいワンピースを着た次の日は、かっこいいジャケットを着たくなる。みたいな。全部私じゃんね。あなたじゃんね。あの子じゃんね。
神のいない社会で、幸せを見つけるのは難しい。
前提、私は無宗教だ。家の仏壇には手を合わせ、初詣は神社にお辞儀をし、クリスマスにはプレゼントをもらい…というか、カトリックの学校に通っていたから、主の祈りはそらで唱えられるし、ハレルヤコーラスは歌えるし、でも当たり前のように君が代は歌えるし、般若心経も若干言える。
前提が長くなったけれど、神のいない人たちは、「何をもって幸せとするか」を決めるのが、難しい。だから幸せになりづらい。(日本人の幸福度が高くないのって、これが結構原因なのではないだろうか)”今の行動が来世に響く宗教”を信じているなら、現状辛くても来世を信じればよいし、”施すことで報われる宗教”を信じていれば、施していれば、いつか報われるだろうと、信じることができる。
「日本人は、自分にメリットがなくても、他人だけメリットを享受することに対して嫌だと思う」みたいな結果の心理学の実験があった気がするが、それって、自分の幸せを測るのが下手だから、現在の自分を、現在の他人と比べることで測ろうとするからではないだろうか。
比べない。あなたはあなたのままでいい、は残酷だ。
私のままの私が、好きになれないから困っているのに。
でも、私が好きなあの人は、あの人のままで好きだから、なんと言っていいのかわからなくて困る。
あなたの○○なところが素敵、という言葉は、きっとどこかに存在する誰かと比べてしまっている。
生きてくれているだけで儲けもの、でも、生きているのが辛い時にはなんの慰めにもならない。
私の好きなもの、あなたの好きなものは素晴らしいから私もあなたも素晴らしい
こう考えるようにしている。
自分を主軸に置けないなら、こうするしかない。
私はいきものがかりが好きで、素敵だと思っているから、きっと彼らが好きな私は素敵。
そう思って自分を保つ。
めんどくさいけど、好きな限り揺らがないから、ずっと好きだから、ちょっと無敵だ。
神のいない世界で安心するには、
自分で自分を定義づけないと安心できない
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