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腹痛が私を氷川きよしにさせ、愛に気づかせてくれた話
お腹が痛い。それも、ものっっっっっすごく。
日曜日の夕方18時。
池袋駅から埼玉方面への急行電車。
月曜に備え早めに帰路につこうという人々で混み合う車内。
発車直前に駆け込んだ。
思えば、暗雲はすでに池袋から立ち込めていたように思う。
ホームへのエスカレーターを登っている時。
いや、恋人に改札の手前まで送ってもらった時。
いやいや、新宿駅で油そば大盛り(ニンニク入り)を5分で平らげた
その瞬間から、全ては始まっていたのだ。
小さな異変に気づかないふりをしていると、
その異変はいつの間にか取り返しのつかないほど
重大な脅威へと変貌を遂げる。
20数年の人生でそれを嫌というほど経験してきたはずなのに。
私は数えきれないほどあったトイレチャンスを見送り、
真っ直ぐと電車のドアへ向かってきてしまったのである。
急行電車は10分に1本あるにも関わらず。
乗車1分後にはドアが閉まり、ドアが閉まるとほぼ同時に戦いが始まった。
お腹が、痛いぞ。
私は高校生の一時期、過敏性胃腸炎を患っていた経験があり、
公共交通機関での腹痛には慣れているはずだ。
しかし、私の場合腹痛は大抵朝に襲ってくる。つまり夕方の、もはや夜の
この時間帯に襲ってくる腹痛に対しては完全にビギナー。初心者クラス。
しかも敵はおそらく油そば。非常に攻撃力が強い。
皆さん、不測の事態に陥った時最も大切なことは何か知っていますか。
答えは「焦らないこと」です。
焦りは禁物。経験のない事態にこそ、焦らず落ち着いて対処することが
大事なのです。
さて、しかし当方、普段ほとんどない夕方の腹痛、しかも油そばという
強敵を前にし、かなり焦りが出てしまったようで、異常なほどの冷や汗をかいていた。
スマホも見ず、優先席の前の長めの吊り革をがっちりと握り、
滝汗をかきながら、どことも言えぬ遠くを見つめる女。
しかも今は真冬1月。車内は暖かく、しかも着込んでいるため汗が全く止まる気配はない。服の中を流れる汗は体温を奪い、謎に「暑くて寒い」状態が
出来上がる。もはや腹どころか頭も混乱し、おかしくなってくるほどだ。
うちの最寄りは急行で一駅のためわずか9分の道のりのはずだが、
待てど待てど着かない。
最寄り駅まであと5分。たった300秒。
わずかな動きが命取りになるような気がして、スマホを見ることも
できない。
いよいよお腹の痛みも、お尻の方も、限界を迎えてきたようだ。
が、時計を見ると1分も経っていない。嘘だろ。絶望。
止まらない汗。汗が冷えることによる寒気、お腹の痛み。お尻。
やばいやばいやばい。こりゃ無理だ。
2025年の始まりは壮大なお漏らしから始まるのか。
「運がつく」なんていうしもしかしたら縁起がいいかもしれないぞ。
いや、今のご時世こんな車内テロを起こしたら
誰がどこでその姿を撮影し、拡散されるかわからない。明日は仕事始め。
仕事が始まる前に人生が納まっちゃうよ。
まさに気持ちは限界突破。限界突破×サバイバー。
さながら2022年紅白の氷川きよし。
龍に乗るんだ。まさに天に昇るように、決死の表情で歌い上げている。
そういえば昨年24年紅白の氷川きよしは良かったですね。
「氷川きよし」という人間が多くの人から愛されていて、ご自身もとてつもなく愛しているのだなあと感じました。
話を急行電車限界腹痛女に戻しましょう。
脳裏の氷川きよしを消し去り、再び時計を見るもあと4分。終わりだ。
本当に終わりだ。全てがどうでも良くなろうとしたその時、
「大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。」
この声は誰だろう。
氷川きよしを追いやった脳裏に、誰かの声が聞こえてきた。
これは、いつも仕事にプライベートに色々とメソつく私を落ち着かせ、
日々前を向く力をくれる恋人の声だ。
繰り返し繰り返し、私の頭の中に彼の少し舌足らずな温かい声が響き渡る。
「大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。」
また違う人の声が聞こえてきた。
これは母親の声だ。いつまでも自立せず、頼ってばかり泣いてばかりの私を
いつも慰め、時に叱ってくれる、誰よりも私の変化に敏感なお母さんだ。
何十回、何百回、いや何千回この声に励まされただろうか。
「大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。」
これは祖父の声だ。
亡くなってもう10年ほど経つ。一度も怒っている姿を見たことがない。
何かに腹を立てているところも文句を言っているところも見たことのない
凪のような穏やかな人だった。母にこっぴどく叱られた私はいつも祖父に慰めてもらっていた。人はすぐ声を忘れてしまう。
でもこんな時に限って、人は大切な声を思い出せるものなのだ。
「大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫・・・・」
みんなの声がこだまする。私も思わず口が動く。
お腹は相変わらず痛い。お尻も限界だ。だけど、心は落ち着いていた。
「大丈夫。」 心からそう思えた。
電車の窓からの景色が馴染みあるものへ変わり、最寄り駅が近づいてきたことを教えてくれる。
到着。
頭の中のみんなに励まされながらなんとかトイレに辿り着く。
用を足す。
トイレを出た私に残ったのは、
スッキリしたお腹と、
恋人や家族のくれた愛だった。
車内後半の私は、
スマホも見ず、優先席の前の長めの吊り革をがっちりと握り、
滝汗をかきながら、どことも言えぬ遠くを見つめる女。
に加えて小声で何かを呟き続ける女であった。どう見ても怪しい。
どうか皆様、もし電車でこのような人を見かけたら、
体内、そして己が限界突破×サバイバーしているのだなと思って
そっとしてあげておいてほしい。
やばそうだったら、駅員さんに救護を求めてあげてほしい。