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ほんの少しで

明日食べるパンもない
               vs
一歩も外へ出たくない

前者の圧勝により、仕方なく買い出しへ出かけることにした。


まずは、文字通り朝食のパンを調達に、この街へ来て初めて立ち寄った駅前のパン屋さんへ。するとあの日もいた店主らしき女性が「こんにちは」と笑いかけてくれる。それだけで嬉しい気持ちになって、最後のひとつだった丸い筒状の食パンを買って、店内で職人さんがパンを焼く姿を眺めながら、コーヒーとキッシュを食べた。初めて来た日の帰り際に「また来ます」と小さく呟いた約束を、今日果たすことができたのである。


すっかり気分が良くなった私は、こんなにも天気がよかったことにようやく気がついて、商店街を散歩してみる。日曜なのでシャッターが閉まっているところが多かった。それが、年始にここへ来てまだどこもお店が開いていないあの時と一緒で、いくらも経っていないのにタイムスリップしたような気持ちになる。でも、空き家のガラスに映った私は、その時よりもこの街の人になっていた。



いつもと違う道を歩いて帰ってみる。すると、軒下に美しい漆器が並ぶ店の前で足が止まる。ずっと割り箸で食事をしていた私は、密かに美しい箸との出会いを待っていたのだ。そこには「みかえり箸」と書かれた竹をねじった素敵な箸があった。手にとり店内に入ると、漆器のようにしなやかな女性が出てきて、丁寧にそれを包んだ。「どうして、みかえり箸って言うんですか」と勇気を出して尋ねてみると、「私が勝手につけたんです。他のところでは、ねじり箸っていうみたいなんですけど、なんかいいかなと思って」と恥ずかしそうに笑った。私はその時、着物を着た女性が静かに振り返る姿が見えたような気がした。


みかえり美人とは程遠い私だが、ふと横に目をやると、そこには古いアップライトピアノがあって、勝手に運命を感じてしまう。「写真を撮らせてください」という滑稽な私を快く受け入れてくてれて、写真を撮る私を見て「弾かれますか?」と触らせて下さった。なぜ私がピアノを弾くことがわかったんだろうと不思議に思っていたけれど、撮った写真のピアノに反射した私の緩んだ口元から伝わったに違いない。

その音は漆を重ねたようや艶があった。ピアノは簡単に持ち運べない分、その場所に漂う空気を纏う。そして時間をかけて育つ森のように響く。


そして、今夜は久しぶりに味噌汁を作ろうと買い出しをして帰宅するも、味噌を買い忘れ、ふて寝をした。それでもお腹は空くもので、むくりと起き上がって、テーブルの箸に目をやる。あんなに面倒だったのに、ご飯を炊いて、インスタントの味噌汁に刻み葱を乗せて、出来合いのおかずを添えた。美しい箸がある。ほんの少しの彩りで、これまで適当にしていた食事が、なんだか楽しくなった。

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SEN
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