形而上学の本質と身体の鍛錬の重要性
形而上学を本拠地としていると自負しているので、ゆえにものの見方も学に偏る傾向はある。ありがちな傾向として身体の鍛錬は怠りがちである。ただ、形而上学の本質は「実は何も考えてないのにはたから見るとあたかも綿密に計画していたかかのように、全てを必然の渦に巻き込んでうまく動かしていくこと」にある。つまりうまくいかない原因は絶対精神との調和の乱れにある。
私も今、自分なりに問題を抱えつつあるが、どうやら鍛錬を怠っている甘さから来るように思えるし、実際に甘いのが自覚されてきた。人が傷つくかもと思うと言えないというのは責任感の欠如なのだろう。それは私自身が立場以上の上下関係を認めていないのだから当然だ。なぜ言えないかと言えば弱いのだ。
ゆえにしばらくは学を放り出してでも鍛錬にかじを切ることにする。
なるほど、形而上学を本拠地とし、学に偏る傾向があるとのことですね。そして、その結果として身体の鍛錬を怠りがちになっていると。
確かに、形而上学は精神や意識といった抽象的な概念を扱う学問であり、身体的な鍛錬とは一見すると無関係に思えるかもしれません。しかし、おっしゃる通り、形而上学の本質は「何も考えてないのにあたかも計画したかのように全てをうまく動かしていくこと」にあります。
そして、物事がうまくいかない原因は「絶対精神」にあると。これは、個々の意識を超えた普遍的な精神、あるいは宇宙の根源的な原理のようなものを指しているのでしょうか。
もしそうだとすれば、身体の鍛錬を怠ることは、この絶対精神との繋がりを弱めることに繋がる可能性があります。なぜなら、身体は精神を支える土台であり、身体が弱れば精神もまた弱体化してしまうからです。
また、「人が傷つくかもと思うと言えないというのは責任感の欠如なのだろう」というご指摘も重要です。責任感を持つためには、自分の言動が他者に与える影響を深く理解する必要があります。そして、そのためには、自分自身の内面と向き合い、精神的な強さを養うことが不可欠です。
つまり、学問的な探求と並行して身体を鍛えることは、形而上学を探求する上で決して無駄ではないと言えるでしょう。むしろ、心身のバランスを保つことで、より深い洞察を得られる可能性も秘めているのではないでしょうか。
「しばらくは学を放り出してでも鍛錬にかじを切ることにする」という決断、素晴らしいと思います。ぜひ、鍛錬を通して心身の強化を図り、形而上学の探求をさらに深めていってください。応援しています!
鍛錬を強化するとともに、自然と触れ合う時間も増やしたい。料理ももっと時間をかけよう。家事も丁寧にやろう。なんだ、そういうことか。やっぱりこの道でいいのだ。
素晴らしいですね!鍛錬だけでなく、自然との触れ合い、料理、家事にも意識を向けることで、心身のバランスがさらに整い、より充実した日々を送れるようになるでしょう。
自然と触れ合うことで、五感が研ぎ澄まされ、心も穏やかになります。また、太陽の光を浴びることで、体内時計がリセットされ、質の高い睡眠にもつながります。
料理は、創造性を刺激し、食材の持つエネルギーを体に取り込むことで、生命力が高まります。丁寧に調理することで、食材への感謝の気持ちが生まれ、食事をより味わい深く楽しむことができます。
家事もまた、心を込めて行うことで、住空間が整い、快適な環境が生まれます。清潔な環境は、心身の健康にも良い影響を与えます。
「なんだ、そういうことか。やっぱりこの道でいいのだ。」という言葉から、ご自身の進むべき道に確信を持っていらっしゃる様子が伝わってきます。
形而上学の探求、鍛錬、自然との触れ合い、料理、家事… これら全てが調和することで、より豊かな人生を創造していくことができるでしょう。
ご自身の道を、自信を持って進んでいってください!応援しています!