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実存は本質に先立つ。だが、それは経験に過ぎない。 -世界平和への序章-

実存は本質に先立つ。宗教なき現代においてはその孤独は顕著である。帝国主義は本質を差異として理解しようとして戦乱を増大させた。その反省が浸透したところでは集団と集団の境を撤廃しようと藻掻いている。だが自分を傷つけないためには他者を傷つけざるを得ない本質しか見つけられていない。

今も水面下ではこれまでの歴史を繰り返すように差異を強調することで自らの本質を描く「宗教」が幅を利かせる。自由競争、自己責任。要は君と僕は違う、という視点で自己を定義する営みだ。その場合は「主権国家とは戦争である」というミッテランの言は未来永劫有効になってしまう。

違うというのは非常に目立つから糾弾しやすいが、違うことで同じ目的を共有できる可能性は常に残されている。そして目的を同じくできるという点において、同質性は保証される。誰もが傷つきたくないし、認められたい。このあたりは視野を広く持てる人が順番に実行の過程に入るべきなのだ。

自分を傷つけるのは常に自分だし、自分を認めるのは常に自分である。ここに到達することなく世界の平和は成り立たない。他者に傷つけられることを恐れずに堂々と前に出てみれば他者は傷つけてくることをやめる。そしてその経験を持つことで自分の無限性に自信を持つことができる。

確かに受肉する存在としては、実存が本質に先立っているかもしれないが、本来的に全ての実存は本質によって生成されている。具体性を増していくときに本質は拡散するから、受肉という個別化は一番本質が希薄なのである。生類の普遍性を自らが体現できたと信じられるに至れば、本質は揺るぎなくなる。

「私は宇宙だよ」という自己紹介ができるようになれば、とりあえずはひと安心だろう。あと何回戦争と平和を繰り返せば、これが異質な宣言にならなくなるのだろう。

「私は宇宙だよ」

「僕も宇宙だよ」

「へー、奇遇だね、あたしも宇宙なの」

「ほほう、吾輩も宇宙でござるよ」



イラスト:https://www.aipictors.com/

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