本当の「障害受容」
精神障害者保健福祉手帳。
ざっくりいうなら「障害者手帳」
これを取得することを決めた。
仕事のあてもなく、傷病手当を受給しながら生活する日々。
家で腐っていても進歩はない。緊張気味にハローワークに行ってきた。
事前に情報登録を済ませておいたので受付窓口にいってその旨を伝えた。呼び出しがかかるまで待つよう言われ、壁面に貼られている資格取得講座やセミナーの案内ポスターを眺めていた。
しばらくすると男性の職員がやってきて、違う窓口に案内すると言われた。
理由は、情報入力欄の“発達障害、精神疾患の有無”という項目にチェックを入れていたから。障害者用の相談窓口に引き継ぎされた。
公的機関や医療機関に行くときは、自立支援医療受給者証とおくすり手帳をセットで持っていくのが癖づいている。その窓口でも双極性障害であること、休職中であること、自立支援医療を受給していることを伝えた。すると、障害者用相談窓口を利用するには病名を証明するものが必要であると言われた。残念ながら、自立支援医療受給者証に病名は記載されない。証明書として使えるものは診断書か精神障害者保健福祉手帳。
精神障害者が働くとき、オープン就労とクローズ就労という2つの選択肢がある。
オープン就労は精神疾患があること、配慮を必要とする場合があることを職場に開示して働くこと。クローズ就労はその逆。
私はオープン就労で働くしかないだろうな、と思っている。自分が「見えづらい障害者」だと自認しているから。フラットなときと軽躁期は問題なく出社できるし、どちらかというとテキパキと仕事をこなすことができるけど、ひとたび抑うつ状態になると家から出ることすらできない。自分自身でも驚くのだから他人は、とくに何も知らない人はさぞかしびっくりすると思う。
世の中が思うよりも精神疾患の病症は様々だ。常に鬱々として何もできなかったり、自傷したり、訳のわからないことを喚いたりするだけが精神疾患じゃない。限りなく普通に、健康そうに見える精神障害者もいる。
私は時々何もできなくなるけれど、一人で生活はできる。時々猛烈な希死念慮に襲われるけれど、痛いのも血も苦手なので自傷行為はしない。時々意味もなく大声を出したくなることはあるけれど、街中で喚くのは理性でセーブできる。世の中からは「見えづらい」精神障害者。
前の職場では主任以上だけが私の障害を知っていたけれど、部署全体への周知はされていなかった。でも突然の“体調不良”で休職したことでなんとなく「なんか、そういう感じで大変なんだろうな」という空気があった。ありがたいことに気持ち悪がる人も偏見の目で見る人もいなくて(少なくとも部署内には)、どうにかやっと出社はしたけど40%しか活動できていないような日には「体調悪そうだけど大丈夫?」と声をかけてもらえることもあった。本当に、徳のある方々に恵まれていたと思う。自分で言うのもなんだけれど、丁寧に仕事をして信頼を培ってきたおかげでもある。サンキュー過去の私。
けれど、新しい環境に飛び込んでいくということは信頼も能力もゼロからのスタート。しかもハンデを抱えた状態。これで突然、脳のスイッチが切り替わってしまったら。考えただけで恐ろしい。
となると、どうしたって最初から障害を開示せざるを得ない。わかりやすい名札をつけるしかない。
診断書は手続きをするときに提出したら終わり。私の手元には概念としての「精神障害者」だけが残り、他の手続きをするとなったらまた診断書が必要になる。全額自費負担のA4用紙。
なによりも見えづらい、なによりも実態のない、けれど最も近くにあって生きることに直接作用してくる精神疾患をかたちとして証明し続けてくれるものは障害者手帳しかない。
双極性障害と診断されたとき、幼少期から繰り返し訪れる「どうしようもなくなる時期」にようやく名前がついて半ば安堵した。
完治はほぼないこと、一生服薬を続けなければならないかもしれないこと、自分でコントロールをしていかなければならないこと。すべてを飲み込んでいた。双極性障害であることを受け入れていた。手懐けて生きていこう、今までもどうにかなったからこれからも大丈夫だろうと。それで「受容」した気になっていた。
けれど、求職するにあたって精神障害者であることを社会に開示することには壁を感じた。一人で生活できるのに、普通に働けるのに、私に障害者手帳は必要なんだろうか。
数週間悩んだ。
結果、手帳取得の意思を主治医に伝えた。
「無理のない環境」にいくための通行手形。
主治医は「手帳は甘えじゃない、生活したり働いたりするのを手助けしてくれるものだと思えばいいんだよ」と言ってくれた。
次の診察で診断書を貰う。
手続きから取得までは大体2ヶ月かかるそうだ。秋のはじめには私に新しい名札ができる。
手帳のことで悩んだ数週間が本当の障害受容のための期間だったと思う。自分の中では消化したように思っていたけれど、咀嚼しただけで飲み込めてはいなかったらしい。なにを以て受容したとするのかはそれぞれだし、そもそも受容する必要はあるのかと問いたくもなる。けれど、生きていくためにはそれを迫られるときが来るのだと思う。この先も、受け入れ難い何かを飲み下さなければならないことが他の人より多くなるかもしれない。毎日飲んでいる薬みたいに。見えないなにかを認めるために。