ジャネット・フレイム『煮たカブを食べるいとこたち』
今日はニュージーランドの小説家、ジャネット・フレイムの作品を紹介する。ニュージーランドというと僕は、前に紹介したキャサリン・マンスフィールドが真っ先に思い浮かぶ。日常生活の何気ない一コマから奥行きをもって人間を描き出すのに長けているという点で、この二人の作家の共通点はあると思う。ただこのジャネット・フレイム、そういう比較が全く間違っていると感じさせる、なにか底知れないところがある。
四の五の言わずに引用しよう。今回の小説は、潟湖(ラグーン)という、2ページから10ページ以上まで様々な長さの小説24篇が集められた短篇集のなかの一篇。主人公はいとこの家に遊びに行くと出てくる煮たカブが苦手だ。引用は嫌な食べ物を食べる時間が迫っている少女の気持ちを描いた箇所。47ページから
ぶらんこがあって物干しがくるくる回っていて蔓棚に便所バラが這っている家に着くと、私たちは帰りたくなった。ドットおばちゃんちに来るたび、私たちは異世界への訪問者になった。ドットおばちゃんの台所はシードケーキと革のにおいがした。うちのとは違う音でチクタクいう時計がマントルピースの上にあって、時を打つと小鳥が飛び出してあいさつした。何もかもがあまりに悲しくて奇妙だった。シードケーキも、小鳥も、毛糸の保温カバーがかかっているポットも、食器棚の上にすわっている緑色の小人も、遠く高いところにいて、私たちにはわからないことをしゃべっているお母さんも。それから外の芝生に出て、自分のじゃないみたいな感じがする腕をぶらさげて立ち、ぶらんこやくるくる回る物干しや庭に咲くうちのとは違う種類の花を見ているのも。そのあとで夕食をとるために家の中に入り、真っ白な支度の整ったテーブルを見て、また大人たちのおしゃべりを聞くのも。まあほんとなの、意外ね、と大人たちはもったいぶって気持ちよさそうに言っていたけれど、それも悲しく思えた。まあほんとなの、意外ね、の繰り返し。そして夕食のテーブルについてガブを見ると、もっと悲しくなった。
なんだろうこの文は。子供が本来もてないはずの表現力をもった少女が、いま感じていることをそのままこちらに報告しているような正確さだ。主人公が五感で感じること、気持ち、描かれるすべてが信じがたいほど生き生きとしている。まさに主人公の立場にたって小説世界に生きている気持ちがするのだけど、そういう小説にありがちな身勝手な感じというか、自意識過剰な感じがない。作家はしっかり対象を突き放している。
人を内側から描くというと、例えばジョイスとか、あるいはウィリアム・フォークナーとか、ヴァージニア・ウルフとか、いわゆる意識の流れと呼ばれる手法の使い手は何人かいるのだが、ジャネット・フレイムは上記の誰よりも自然にこの手法を用いている感じがする。読んでいて作家の力量を感じさせない。それがすごい(読者は作者のテクニックに意識が向くと、基本的に白けてしまうものなので)。
まああんまり言ってもしょうがないこの人の小説はこの本とあと一つくらいしか読めないらしい。まずはこの本、おすすめです。
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