キャサリン・マンスフィールド『入江にて』
今回はキャサリン・マンスフィールドの『入江にて』。この小説は今回引用する、ちくま文庫の他、新潮文庫と岩波文庫の短編集にも収録されている。新潮文庫の題名は『湾の一日』、岩波文庫の題名は『入り海』で、訳者によって随分違うが、原題が『At The Bay』なので、ちくま文庫のが原題に一番忠実な感じ。
キャサリン・マンスフィールドは19世紀末、 1888年に生まれ、20世紀初頭、1923年に34歳で若くして亡くなっている。そのため作品もマンスフィールドが尊敬していたチェーホフのように多くはない。前に紹介したヴァージニア・ウルフと親交が深く、またウルフはマンスフィールドの能力を高くかっていて、日記でもマンスフィールドの小説をほめている。チェーホフのように人の機微を捉えるのが上手で、派手な事件が起きるような小説ではなく、ちょっとした出来事が起こって、そのことで人の心が変化する様を、繊細に描き出す。
一通り作者紹介したところで『入江にて』の話に移る。この小説はマンスフィールドの作品の中でも特に事件が起きない。この小説は、バーネルという一家のある一日の暮らしぶりをクレッセント湾周辺の自然の描写とともに描いているのだが、筋らしい筋は何もない。小説は風景の描写から始まる。223ページ、始まって二ページ目を引用する。
クレッセント湾の突端を回り、砕けた岩が積み重なってできた小山の合間を縫うようにして、羊の一群がぱたぱたと走って現れる。羊たちは押合い圧合いしていた。小さな、落ちつきのない、羊毛の塊。羊たちの小枝のような細い脚は忙しく動いている。まるで冷気と静寂に怯えているかのように。羊の後ろから老いた牧羊犬が、濡れて砂まみれになった肢で地面を蹴って走ってくる。鼻先は地面の匂いを嗅いでいるが、どこかおざなりで、ほかのことでも考えているように見える。そして岩のあいだから、羊飼いも姿を現す。羊飼いは痩せた、姿勢の良い老人で、粗い毛織物のコートを着ていた。コートの表面を細かい水滴が蜘蛛の巣のように這っている。天鷲絨(びろうど)のズボンの膝から下を紐で結び、フェルトの中折帽の周囲には、細く畳んだスカーフを巻いていた。片手はベルトの内側に差しこまれ、もう一方の手は光沢のある黄色いステッキを握っている。羊飼いはゆっくりと歩を進めながら、小さく、軽く、口笛を吹いていた。微かな笛のようなその音は、嘆きを含んでいるようでもあり、慰めを含んでいるようでもある。牧羊犬はしばらくあたりを跳ねまわっていたが、やがて立ち止まり、自らの懈怠(けたい)を恥じるかのように、主人の横を生真面目な足取りでしばらく進む。
クレッセント湾周辺の朝ののんびりした感じが伝わってくる。こういう感じで、最初の数ページはバーネル家の人物は登場しない。別にバーネル家の人間がこの小説の中心でないということだろう。実際バーネル家の人間が出てきてからもその暮らしぶりが断片的に描かれるだけだ。都会に暮らしている僕みたいな読者はその暮らしぶりを優雅だあと思いながら読むわけだが、バーネル家のみんながみんな悩みがないわけではない。バーネル家に嫁いできたリンダ・バーネルは悩みを抱えている。その部分をちょっと引用する。252ページ。
リンダは眉をひそめた。彼女は急いですわりなおし、踝を掴んだ。そうだ、それが生活にたいする真の恨みだ。それが、理解できずに彼女が何度も何度も尋ねたことだ。空しく返事に耳を澄まして。子供を産むことは女にとってごく当たり前の務めだと、いかにももっともらしく言われている。けれどそれは真実ではない。リンダはそれが間違っていることを証明できた。子供を産むことで、彼女は破壊され、力を奪われ、勇気を挫かれた。彼女は子供を愛していなかった。愛している振りをするのは無意味に思えた。
かなり深刻。リンダがこれほど悩んでいるのに、小説はこの問題に真正面から取り組んだりはしない(スタンリーという夫が帰宅する場面にちょっとした救いはあるが)。
暗いところを引用したが、もう一つ明るいところを引用する。267ページ、子供たち三人が洗濯小屋でトランプ遊びをする。
お茶の後、奇妙な一団がバーネル家の洗濯小屋に集っていた。テーブルを囲んで、牝牛と雄鶏と、自分が何か忘れつづけている驢馬(ろば)とそれに羊と蜂がいた。洗濯小屋はそうした会合にはうってつけの場所だった。そこでは好きなだけ騒ぐことができた。誰も邪魔する者はいなかった。それは家から離れたところに建てられた、鉄葉(ブリキ)の小さな小屋だった。壁には深い飼桶があって、隅には洗濯用の大きな銅の大釜があった。釜の上には服を引っかける木釘のついた籠があった。蜘蛛の巣に覆われた小さな窓があり、窓枠に蝋燭と鼠捕りが載っていた。頭の上には洗濯物を掛ける縄が十文字に張ってあり、壁の釘には錆の浮いたものすごく大きな馬蹄が掛かっていた。小屋の真ん中にはテーブルがあって、その両側には木製のベンチがあった。
「蜂なんかだめだよ、キザイア、蜂は動物じゃないよ。蜂はこんちゅだよ」
「わかってるわ、でも、わたしすごく蜂になりたいの」キザイアは泣き声をあげた……。小さな蜂、黄色い毛に包まれ、縞の脚を持った蜂。キザイアはテーブルの上に腹這いになって足を上げた。蜂になったような気がした。
「こんちゅは動物に決まってるわ」キザイアは断固として言った。「音を立てるもの。魚と違う」
「僕は牝牛だ、牝牛だぞ」ピップが言った。そして大きな唸り声をあげた――どうしたら、そんな声がだせるのだろう?――ロティ―はすっかり驚いてしまった。
「僕は羊だ」と小さなラグズが言った。「今日の朝、羊の群が通って行ったんだ」
「どうして知ってるの?」
「父さんが啼き声を聞いたんだ。メエェェェ」ラグズは群の後ろをよちよちと歩き、抱きかかえて運ばれるのを待っている仔羊のような声を出した。
「コココ、コケッコー」イザベルが甲高い声で叫んだ。赤い頬と輝く眼のイザベルは、確かに雄鶏のように見えた。
「わたしは何になるの?」ロティ―がみんなに向かって尋ねた。そしてそこにすわって、みんなが決めてくれるのを待っていた。それは易しいものでなければならなかった。
「驢馬になればいいよ、ロティー」そう言ったのはキザイアだった。「ヒヒヒーン、驢馬だったら忘れない」
ここはすごいいいところでもっと引用したいけど、さすがに長くなりすぎたのでもうやめとく。ここだけチェーホフの『子どもたち』みたい。
前に引用した暗い場面も明るい場面もあって戸惑う読者をよそに、最後も先が気になる感じを残して小説はばっさり終わる。ひたすらクレッセント湾の自然と、そこに住む人を描写するだけという、そういう小説。断片的な情景が提示されるだけで、その解釈、繋ぎ合わせは読者に委ねられている。ので、ちょっと入り込めないと思う人もいるかもしれないが、最初に引用したような自然の描写と子供たちが生き生きと遊んでいる場面だけでも味わってみてはどうだろう?
というところでまた!