書くと、生きたいと思う|あたらしい生活
この秋、三年住んだ鎌倉をでた。
おなじ海と山のある、でも、ここで生活している人しかいない町へきた。
昔からそう変わっていないだろう畑、原、川。
近くに、縄文の生活のあと。
家と明かりはすくない。
鎌倉でさえ、夜のしずけさにおどろいたけれど、黒より暗い暗やみはある。
鎌倉には、思ったよりいた。
少しのあいだ、ぜんぶの皮をはいでつるむけになってやすみたかったから、気づけばいちばん長く住んだ東京をでて、鎌倉に移った。
先のことは考えなかった。
エンデのインディオの話、インディオにとっての二日間が私にとっての鎌倉だと、越してすぐ砂浜をあるいていて、ぽつりと思った。
インディオの二日間が、この三年間だった。
✴︎
これがあれば充分と、思える部屋に移った。
今の家にあるもの。
ちいさなリビング。よく陽の入る窓。
七年ぶりの、自分だけの部屋。そこから山と雲と畑と、農作業するおじいさん、おばあさんがみえる。
今朝は採った葱をきれいにならべて、リヤカーで押していった。
きのうは赤いトラクターに乗ったおじいさんが、伸びほうだいの草を三角形にぐるぐるまわり、きれいに刈っていた。
前の家にあって、今ないものは、沢山あるけれどかぞえない。
ないならないで、その変わりようを味わう。
芝居をしていたとき、変わった役づくりのやり方を学んだことがある。
あいだを空けて、二枚の人物の絵を置く。
かたほうの絵の前で、その絵のエネルギーやエッセンスを、呼吸をしながらゆっくり、からだに入れていく。
入ったと感じたら、そのままもうかたほうの絵のほうに、ゆっくりあるいていき、こんどはその絵の前に立つ。
先ほどとおなじように、その絵をゆっくり、からだに入れていく。
なにが起こるか。
先生は言った。
このワークで大事なのは、絵から絵へと、うつり渡っていく時間です。
それを、あなたなりにたのしむこと。
これは、旅のワークです。
変わっていくことを、私なりにたのしむこと。
ふるいものを、少しづつ手ばなして、あたらしいものと出会っていく。
そのはたらきは、ふだん意識にものぼらないようなもので、幽く、しずかで、そしてたしかにある。
それを、感じていなさいーーーーー
どこかからどこかへと、うつり渡っていく時間は、スーと生きている心地がする。
心もとなく、宙ぶらりんで、こわさとへんな気楽さと、よるべなさと、ぜんぶある。
長い移動のときもそうだ。電車とか、バスとか、散歩も。
自分のからだに、それとない方向性が与えられてうごいているとき。
変化のなかにあるとき。
生きることは、点から点へ、一生をかけて移動していくことでもある。
大きくみえるその点も、流れのなかの点なのだけれど。
✴︎
家のこと。
前は分不相応といっていい、ひろい家に住んだから、持ち物もしらぬ間にみるみる増えた(そうじも大変だった)。
増えたという実感のないまま、むしろ、昔のように安かろうわるかろうの買いものもしなくなったし、よく吟味するし、物にたいする感覚は研ぎ澄まされてきたとさえなまじっか思いながら、いらぬものはたしかに、音もなく、増えていった。
あのままでは、いつかぱちん、とはじけたかもしれない。
はじけたから、今なのかも。
生きることは、軌道修正のくりかえしでもある。
引越しは、総じてひと苦労、ふた苦労。
あれやこれやのこまごましたことに、思っているより時間もかかる。
あーやっかいだ、なぜまたこんなこと、とどこかで思いながら、けれど腑に落ちている。
私のような、放っておくと生きることにズルズル無頓着になっていくような人間は、定期的に引越しをすることで、自分の現在地を把握し、取捨選択をみがき、自分をきちんと活性させる、ととのえたり、仕切りなおす、それはすべて前へすすむために、ひつような機会とする。
引越しで、あれもこれもどうして持っていたものか、というのがでてくる。
お金をかけて買い、たいして使いもせずほうっておいてダメにし、お金をかけて捨てる。
なにやってるんだか。
生きるのにひつようなものは、たいしてない。
着ていてストレスのすくない服。
からだを健やかに守るための下着。
明日も身心ともに丈夫でいるための料理を、するための道具。
紙(パソコン)とペン。
若さだけでどうにかなっていた時とはちがい、ただ生き延びるのではなく、できるだけ丈夫に命を運んでいくためになくてはならないものに、できる範囲のお金はかけて、数はしぼり、それ以外をさっぱり、単純明快にしておく。
今、その時間をもらった。
✴︎
なんのために生きているかはないようで、ある。
ひつようなのは書くこと。
その日記を読んでから、いわゆる推しになった和泉式部の、先日の大河ドラマでのいうところには、愛する人を失った哀しみのなかでも
「書くことで、生きたいという気持ちが息づいていきましたの」
千年、経っても変わらないおなじ人間の心。
私も、書くと、生きたいと思う。
書いていると、生きてきたのだ、生きているのだと、実感する。
もっと生きたいと思う。ふしぎに。
ひとりの人間に生まれて、それとして生きる。
そのことが、人間全体とどのように関わりを持つのかということを、ずっと知りたい。
そのために、自分の持てる力で、はたらきかけつづけたい。
小学生の頃から、しつこくそう思う。
それでいて、何をどうしたら良いのかわからず、やってはみるのだけれどくすぶりつづけて、けっきょくは何もできなかった時間が、今までのほとんどの時間を占めていた。
そのちぎれそうなボロ布みたいなくやしさ、情けなさが、いつもある。
べっとりとある。
けれど明日をみているから、書く。
今を過去として感覚している、自分がつねにどこかにいる。
2024年という数字をみても、あああの時の、というちらちらしたものが、いつもある。
年の瀬がみえてきて、2025年と言われはじめてもおなじ。
すべての時制がきえたように、感覚することもある。今も過去も未来もみんな、いっぺんにあるという感覚は、年々濃く、はっきりしていく。
ふしぎに。
そのなかで、人間として生まれたことのわけもわからないで生きていくことはできず、この命と人間全体がどういう関わりをもつのか、できるだけ深いところまで、知っていきたい。
あたらしい部屋にて。
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