人生読書。

50歳くらいまでは手当たり次第読んでました。毎日図書館行ってた。でもやめました。今はコレ!って決めた数冊を何度も繰り返し読む様にしています。貪欲に新しいモノを求める時期はもう終わった、と思ったのです。

 読解力ってありますよね。僕にはその力が多少不足しているのかもしれません。
 翻訳物じゃダメなのかもしれない、と考える様になったあるイギリスの有名作家の作品に出会って僕は新しい文学を積極的に探す事を諦めました。その翻訳された小説を読んでも僕には一行も理解できなかったのです。しかし今からその小説を読解できるほどの英語力を身につけるのは難しい。(現在65歳)つまり日本語以外で書かれた文章を本当に感じるにはもはや手遅れと考えたのです。それが新しい一冊を探すのをやめた1つの理由。でもそれだけの理由だと若干しこりが残る感じがしていました。でも他にもっと重要な理由がありました。

 僕にとって名作文学とは "書かれている文章を読む事で自分の真実を知れるもの"です。自分の身体の奥にある感覚を1ミリもズレずに射抜かれたと感じる表現、そんなモノに出会う、とでも言いましょうか。

 自分の真実が描かれている作品はそう沢山は見つかりません。僕の場合はそうでした。
 
 その物語にあたかも自分が存在するかの様な作品。そんな自分的な名作を読むにつけ、自分とはこういう人間だったんだ、これがオレの真実なんだ、といつも1つの同じ答えにたどり着く気がするのです。その気づきこそ読書の意味だと僕は思っているので、また別の新しい自分に出会うという果てしない作業を繰り返す事に時間を費やすより、自分の正体を繰り返し確認しておきたい、と考える様になったのでそれで手当たり次第読むのはやめた、という事です。

 一体どの小説?とか、どんな作家?とか聞かれても答えたくありません。ましてその作品のどの部分、なんて事は絶対誰にも教えません。でもケチで教えないのではありません。何故教えたくないか?と言うと、それを人に教えるのはまるで服を脱いで裸になり何もかも人目にさらすのとほとんど同じ行為だと感じてしまうからなのです。それに僕の真実は僕だけのものであって伝えた所で他の人の参考にはならない、とも考えているんです。人には一人づつ別の真実があるのですから。

 じゃアナタの真実ってなんなの?という質問に答えられるくらいなら僕も文学賞とかをとれていると思います。だからもし自分の真実を知りたいなら自分で読みまくって探すしかないという事になりますね。

 昨今はストーリー展開が巧みでどんどん進んでいくエンターテイメントな物語りが圧倒的に人気なようです。確かに読んでいて楽しいなぁと感じます。だがしかし…。
 そんなに沢山読んだわけではないのですがその何冊かのエンタメ小説を読み終えた後自分の中に何か大きな変化が起こっただろうか?と自問すれば答えはNOです。そしてそんなベストセラー小説を読んでみて、あ、つまり僕はこういう読書をしたいわけではなかったのだ、と改めて考えました。

 僕の求めている読書という行為は娯楽ではなくもちろん遊びでもない。それによって人生が狂わされても仕方ない、とでも言うほどの真剣勝負なんです。人生をかけてそこに表現されているものと向きあいたい、これが僕にとっての読書なんです。

 読書は自分を探す旅です。美とは何か?どんな力がほしいか?賛美する気持ち、憎悪のカラクリ、欲望の対象、等々自分の生き方をその一編でガラリと変えてしまう作品と出会う、という事こそ僕にとっての読書の意味です。だから僕にとって読書とはある意味恐ろしい行為とも言えるのです。

 というわけでなかなか割らずに飲める新たな銘柄の酒に出会えない昨今。信じられる数冊を繰り返し読む様になった僕。学びの終活とでもいうのかな?こういうの。終活ってのにはまだ早いかな?w現在65歳。2度死にそうになり心臓と肝臓に爆弾を抱えています。さて、アレ読もうか

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