歴史の扉Vol.11 ポテトチップスの世界史
ライターの稲田豊史さんによる『ポテトチップスと日本人—人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新聞出版、2023年)を読んだ。ポテトチップス好きの私としては、カバーの装丁がポテトチップスのようであるのも良い。思わず手にとってしまうではないか。
世界史的な観点から、いくつか気になった点を紹介がてら整理してみよう。
ポテトチップスと有色人種
ポテトチップスの歴史はそんなに古くないようだ。一般には「アフリカ系アメリカ人の男性を父に、ネイティブアメリカンであるモホーク族の女性を母に持つ料理人」であるジョージ・クラム(1825〜1914)が、サラトガ・スプリングスのレストランで、オーダーにこたえて開発したのがはじまりなのだというが、発明者はほかにいて、クラムは「広めた人」というところというのが本当のようだ。
ただ、クラムの名前はあまり知られていない。以前、フライドチキンのルーツについて簡単にまとめたが、やはりここでも「有色人種」の問題が絡んでいる。
マクドナルドのシステムは、マクドナルド兄弟が開発し、レイ・クロックが広めたことで有名だ。しかしポテトチップスの場合、広めることで商売に成功したクラムは、有色人種であったために特許をとることができなかったのだ(45頁)。製法に関して特許が申請されなかったことが、かえってポテトチップスが普及する原因となったという点は皮肉である。
禁酒法・第二次大戦・ハワイの日系人
1920年代のアメリカは「永遠の繁栄」ともうたわれる空前の好景気を実現させた。
自動車王フォードはベルトコンベヤによる自動車の大量生産を実現し、いかに効率よく労働者を働かせるかが、経営者の腕の見せ所となった。
科学的な経営管理手法にとっての敵は、酒だ。
同時に、第一次世界大戦(1914〜1918年)の敵国であるドイツ系のビール製造メーカーに規制をかけようという動きや、禁欲を重んじることこそが古き良きアメリカだという保守的な雰囲気も重なった。
こうして1920年代には禁酒法が施行されることになる。
しかしかえって闇酒がギャングによって生産されることとなり、禁酒法は「ザル法」となってしまった。結果的に禁酒法は1933年になって廃止。
その反動もあって、ビールとともに流し込むポテトチップの需要が普及していったのだという(49頁)。
ここから、第二次世界大戦がポテトチップス需要のさらなる高まりにつながった事実、さらに日本で戦後に「ポテトチップス製造の草分け的存在となった濱田音四郎」が登場するまでのつながりが面白い。
実は日本のポテトチップスのルーツは、ハワイの日系人の開発した「フラ印」のポテトチップスにあったのだ。
「のり塩」、「コンソメ」、「ピザポテト」
フラ印のポテトチップスに触発され、独自の製法でポテトチップスを製造し、「おつまみ」を「お菓子」として売り出したのは、湖池屋の小池和夫だ。
時は1962年のこと。当時、日本版のポテトチップスをつくろうとしていたメーカーはほかにもあったようだ(68頁)が、これらにフラ印の音四郎が製法を教えたのかどうかには諸説あるようだ。このあたりは著者が取材も交えて整理している(70-74頁)。
この後のポテトチップス史の叙述も、図式的ではあるものの、取材や文献調査を交えながら後づけられたものになっている。
たとえば、コンソメパンチが流行ったのは1969年の飲食業における外国資本の自由化(第二次資本自由化)によるミスタードーナツなど外食チェーンの日本進出、それにともなう洋食への憧れとひもづける。
その後、1980年代のピザポテトは消費社会の欲望充足装置、1990年代の「一億総中流」の崩壊にともなう「ヘルシー」vs「ジャンク」の二極化、2010年代以降の多極化(私の好きな堅揚げの登場はここ!(289頁))が続く。
本書を通して実感するのは、「国民食」とされる食であったとしても、その来歴はいともたやすく国境を越えるということだ。ポテトを揚げるという基本フォーマットは一緒でも、そこにどのような意味を付与するかによって、多様な食の形が現れる。ポテトチップスという「国民職」を通して日本人の自画像をうつしだす本書の試みは、そのグローバルなあり方にも同時に気付かせてくれるものだ。
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