名もなき課題と人をつなぐhubとしてのお寺に寄付をはじめた話
国や自治体の制度では支えきれない課題、またはそもそも問題があると認識すらされていない課題、もっというと生きにくさは価値観の多様化や貧困格差、人口構造の変化に伴い増加している。
それらを私は「名もなき課題」と呼んでいる。
名もなき課題を抱えている生きにくい人と出会い、解決方法につなぐには1対1関係では限界がある。
かといって顔を合わせることができないような希薄な関係性では解決方法や支援につなぐことも難しい。
人の課題、苦しみと向き合うには生活や地域に根ざした場所と人が必要。
そういう意味で、お寺は課題を抱えている生きにくい人と解決できる人や支える人をつなぐ場(ハブ)になる。
だから私はお寺の基盤(檀信徒関係、弔いなど)を整え、ハブになっていくお寺を増やしたいと日本全国の寺院支援を行っている。
そんな私が最近、個人的に参加しているのは西正寺@尼崎市が新しくはじめた小口の寄付活動。
私は尼崎市民ではなく大阪出身の現在東京都在住。
西正寺の宗派である浄土真宗西本願寺の信者でも、西正寺のいわゆる門信徒(会員)ではない。
けれど、前述の考えを持つ私にとってこれこそ望んでいた形に近い!と感じたのですぐに参加した。
西正寺 住職 中平了悟さんのブログ
お寺の近くに住んでるわけでも、信者でも、門信徒でもない私がなぜ西正寺の寄付活動に参加しようとおもったのか?
考えを整理していきたい。
点在する名もなき課題ともやもや
朝起きて仕事に行って、帰ってくるまででもたくさんの名もなき課題によって生きにくさを抱えている人の片鱗を見る。
大泣きするこどもに説得しても怒鳴っても言いたいことが伝わらず、「もう嫌だ」とその場にうずくまってしまう母親。
「俺の大変さなんかお前たちにわからない!」と目を吊り上げて家族に怒鳴っている父親。
駅のホームでうつろな目で顔を真っ青にしながら座っているスーツの男性。
駅の視覚障害者誘導用ブロックに人がたくさんいて行き先に困っている視覚障害者の方。
やせ細り、髪の毛に艶はなく、駅のホームに座り込む高校生。
満員電車で大人に潰されないように苦しそうにしている制服を着た小学生。
他者との関わりが希薄し、コミュニティ所属も自由に選択できる時代。
インターネットに繋がっている画面があれば、見たいものしか見ないでおこうと思えば見ずにすむ。
でも少し顔を上げて静かに社会をみわたせば違和感は点在し、そこかしこに心がちくっとする問題ある。
ただ、気づいても1人1人に話しかけて事情を聞いて、何が問題でどうしたいか?を聞いていくには勇気も知恵も時間も不足している自分1人だけではどうしようもできないことのほうが多い。
例えば少し寄付やボランティアをしても、罪悪感を拭おうとしているだけのような自己満足感を感じたり、問題解決に対して焼け石に水のような感覚に陥る。
継続的な関わりがせめてもの誠意だとおもいつつ、自分自身の仕事や生活に精一杯で関わり方を模索する余裕もない。
なにより私自身も生きにくさを抱えているのだから、自分のこともままならないのに1人だけで誰かの苦をどうにかするなど思い上がりもいいところだと思う。
でもなにもしないままいて、自己責任社会で制度からこぼれて行き詰まる可能性は誰にでもあるし、自分もそれは例外じゃない。
なにか良い方法はないのか。
そんななんとも言えないもやもやを感じてはどうしようもない無力感を抱いていた。
いくつかの条件を満たしたお寺だからできる地域のハブ化
西正寺の活動は小口寄付から可能。数百円から毎月または年単位でクレジカードを介して寄付ができる。継続的に西正寺と中平住職という顔が見えるハブを通して、微力ながら貢献できる仕組み。
名もなき課題に気づきつつ、しっくりくる方法も見当たらず、もやもやしていた私にとって西正寺の寄付活動は参加する理由のほうが多かった。
シンプルに言えば、それが大きな理由だけれど、他のお寺が同じ活動をしても私は参加したのか?と考えて、「条件によるな」と思った。
その条件とは?を以下で整理。
寄付先に共感と信頼を寄せられるか
中平住職の人柄が信頼できること
地域に開かれたお寺であること
西正寺の活動に社会性があること
今回、迷いなく寄付をしようと思えた要因は上記3点。
この3点がなければ寄付はできなかったと思う。
中平住職の人柄が信頼できること
社会に通じる聖なる人。
日本全国のお寺を支援する仕事をしている私にとって理想の僧侶像は?と聞かれたらいまのところこの一言につきる。
聖と言ってもまちのお寺は、そこまで特別でなくていいと思う(圧倒的な聖性を持つ僧侶ももちろん必要だけれど)。
生活人の中にあって馴染むけれど人と少し違うからこそ相談ごとが集まったり、人が集まる。そんな立ち位置が今の時代、僧侶に必要なあり方だと感じているから。
そして、宗教や死生観というお金や数字に変換できない世界観にしっかりと軸足を置きつつ、資本主義社会に流されず流れ、そこで生きる人々が抱える「苦」と向き合い、目に見えないけれど大きなものに守られる世界とつなぐことで心の安寧をもたらす。
そんな、現代社会の特異点になる意味で、社会に通じる聖なる人が求められていると思う。
その意味で、中平住職は理想に近い人だと思う。
まず、人柄は非常に聡明で心が温かい。決して偉そぶらず、謙虚だけどへりくだっていない。そしてものごとを開いたり、遊んでみることが大変お上手だ。
切羽詰まったものごとにうまく考える余白を持ち込むのが上手いと言えばいいのか、とにかくあり方が面白い。つい真面目すぎるほうに思考がはしりがちな私としては羨ましくもある。
尼崎市の教育委員会に参画するほどの社会通念や事務能力といった一般の人間が話していて違和感のない感覚と能力をもちあわせつつ、軸足は絶対的に僧侶。仏教の視点で社会を見つめつつ、問を立てて、自分も生活の中にふみこむためにも寺院の外に出て、体感を得ながら寺と生活、地域の接点を紡いでいくことを模索されているように思う。
何か企画して実践する際も変に徒党を組むことなく、自分1人と門信徒や地域人など周囲の助けで実行できる範囲で行う堅実さも取り組みへの本気度が伺える。
SNSでの発信もいい意味できらきら感がなく、「すごいことをやっているぞ!」という自己満足に偏った感じはなく、「おもしろいことはじめました~」というゆるい雰囲気が逆に信頼感を増す。
いろいろと書いたけれど、なんというか「ちょうどいい」の感覚が非常に冴えている印象を抱く。
それによって相手を緊張させないし、かといってなめられるようなこともない。
人が相談したくても、緊張させたり話を聞かず一方的に話すから相談が集まらない僧侶や教義にはうるさいが社会通念がなさすぎて「この人に話してもなわかってもらえないだろう・・・」という印象を抱かせる世間を知らない僧侶は決して少なくない中で、絶妙なバランス感覚。
地域に根ざす寺院を維持していく僧侶に必要だけれど一朝一夕には身につかない難しい素養だと常々感じているだけに稀有な人だと思う。
そんな信頼できる中平さんが住職として寄付を広く募っているというのは、「これから面白いことが起こりそうだ」いう期待値が高い意味でも人として信頼できるという意味でも寄付にいたった大きな理由。
地域に開かれたお寺であること
西正寺はユニークなお寺だ。住宅街にある昔ながらの大きすぎず狭すぎない空間。専属僧侶は中平住職と先代2名。規模や体制をみるとごくごく普通のお寺。
ただ、その様子を見ていると門信徒以外の地域人の出入りが一定数ある。
門信徒向けの宗教行事、供養行事や落語会の他、地域にむけてさまざまな活動も行っているからだ。
寺院というのは住職の所有物ではない。
寺院を支えている門信徒の理解も重要になってくるので、住職がやりたいようにやればいいというものでもない。
住職の自己実現に利用されていないか?無知による無謀な計画になっていないか?などをチェックする機能という意味では、門信徒のチェックがきちんと入るようになっているのは大切なことだとおもう。
(お寺によっては檀信徒(門信徒)にろくに相談しないこともあるけど・・・)
その門信徒と西正寺は日頃から月参りや交流の中で信頼関係を構築し、寺院と門信徒双方向の考えが共有されているから激しい反対にあうこともなく、了解を得ながら進められている。
ちなみに、活動の代表格は「カレー寺」。
こういった有名なイベントはもちろん素晴らしいが、それだけではなく、日常に根ざした無理のない地味だけどほっこりする企画が個人的には注目ポイント。
最近は「ふるまい」としてコーヒーと本を自前で提供してただお寺でくつろぐ。作業スペースとしてお寺の1角を提供。流しそうめんとビニールプールで地域のこどもたちがはしゃいだり。
なんでもない風景かもしれないけど、参加した1人1人にとっては日常に現れたすこしだけほっこりしたり、すこしだけ非日常になる時間。
お寺に足を運ぶという意識もないままに、お寺の山門をくぐっていく。
そんな風に、公共施設のように地域にお寺を開き、自然と新しい人も古くからの人も生活者も行政の人もまじりあう空間になっている。
これにより、西正寺の門信徒だけではなく周辺地域と西正寺のつながりができている。
寄付をする対象として、お寺単体だけではなく、そこに住まう地域の人々にも活動の影響が広がっていることが見て取れることも寄付をするうえで大事なことだと思う。
西正寺の活動に社会性があること
「知らない文化にふれる」場を中平さんは意識して企画しているように感じる。「知らないからみんなで学ぼう」というスタンスからくるものだと思っている。
・お寺で社会課題について学び、考え、語り合う「テラからはじまるこれからのハナシ」
・地域の福祉的行事や取り組みへの参画、応援(ミーツ・ザ・福祉 等)
・お寺での意見交換会(教育に関して雑談する会、等)
「LGBTQ」「生理の貧困」「そろそろこれからの葬儀の話をしよう」などをテーマにした学ぶ場を門信徒および地域に提供してみんなで学びを深めている。また、寺院から活動団体に寄付や支援も行っておられる。
学校や教科書では学べないこと
公共の制度・支援からこぼれおちていること
お寺を学び舎に年齢や立場関係なく、平等に学び、まずは知り、そして考えることですこしずつそれぞれが当事者意識をもつ。
人は経験もなく知らないことは漠然と不愉快だったり、不安だったりして避けてしまうけれど知っていればなんてことはないこともある。
そういった意味で、従来の寺院活動以上にさまざまな活動を自身が行うというよりも第一線で活動している人を招いてみんなで学び、知識と人の輪を広げている活動は地道だけど大切なこと。
概念的な学びやイマドキのトレンドを抑えたマーケティング用語でお茶を濁したりせず、もっと素朴で身近な課題を問として立ち上げ、みんなで深掘りする。
イベントでありがちな、参加したら満足というようなことや、概念的すぎて知恵は得たけど自分に落とし込めなかった。というようなことではない。
もっと芯を食った、その地域の人の生活に通じるような活動が世の中をよりよくするには重要だと感じる私としては企画のあり方そのものにも深く共感する。
そうしてゆるやかにでも当事者意識を持ったひとりひとりの心の持ちようがかわるだけでも社会はすこし寛容になり、優しくなると思うから。
西正寺に寄付することで、寺院活動および地域貢献、社会課題解決への貢献にもつながっていくし、私もそこに寄付するだけではなく共に学びを深めてアイデア出しや議論に参加しつつ、ゆるやかな当事者になる。
そうしたつながりと支援が成立していく意味で、持続的な社会性ある事業を行っている寺院であるというのは寄付をするうえ重要な視点だと思う。
また、寺院へのクレジカード決済からの寄付を可能にしている仕組み提供組織も寺院であればどこでも使えるわけではなく、この社会活動性が審査ポイントになるそうなのでこの仕組み化のためには欠かせない。
お寺をハブに社会をよりよく
私自身は死後の手続きや供養のことで悩む人をたくさん見てきた。親族がいない方の遺言書作成で課題になりがちなのが寄付先だ。
それまで慈善事業団体や宗教法人など寄付を受け入れている団体と関わりがない人が多いこの国で、自分の死に支度を進める中で財産の行き先がないから国庫に収まるくらいなら寄付(遺贈寄付)を、と願う人はそれなりにいる。
その際に問題になるのが寄付先で、どんな活動をしているどんな団体でどこになぜ寄付金が使用されるかが見えないために、寄付先を選定する際の根拠が乏しく、遺言書作成に難航する。
日本財団などで寄付先の一覧がまとまっているサイトなどもあるが、情報だけみてもピンとこない。というのが正直なところだと思う。
寄付する側にとって、金額の大小に関わらず活動先の内容に共感したり、活動している人の顔が見え、信頼できるか?が重要なのだと思う。
日本のまちに点在する寺院がまずは、檀信徒(門信徒)とのつながりをしっかりもつこと、地域との接点を無理なくもつこと、その先にようやく持続的な社会性のある活動と継続的な寄付者との関わりが成立するのだろうとおもう。
ただあるのではなく、人や地域と共にある寺へ。
そうありたい寺院には前述したような3点の中にふくまれたポイントが重要になってくると思う。
そうすれば、お寺に関わりたい人、地域に貢献したい人、誰かの役に立ちたい人、活動に共感してくれる人たちがそれぞれの理由と距離感でお寺に関わってくれる接点となり、また新たなご縁のつながりとゆるやかな互助のネットワークとなるはず。
未来の具体的なことでいうと、まだまだ始まったばかりの仕組みなのでゆるくお寺に寄付し、参加できるこの仕組みをどう活かしていくか?
参加者の1人として中平住職や周辺のみなさんと話し合いながら価値ある方向に繋げていきたい。