『少子高齢社会の遺骨の行方-死後の無縁化に関する一考察-』執筆の補足
大正大学 地域構想研究所研究員で僧侶の小川有閑さんと私の共著で研究ノートを発表した。
大正大学地域構想研究所の2023年度紀要「地域構想」第6号で研究ノート『少子高齢社会の遺骨の行方-死後の無縁化に関する一考察-』が掲載。
▶詳細
企業名 : せいざん株式会社
タイトル: 『少子高齢社会の遺骨の行方-死後の無縁化に関する一考察-』を発表
配信日時: 05月31日 12:00
URL : http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000123274.html
研究ノート執筆のきっかけ
小川さんとは弔いに関する感性が合う。
弔いについて話す機会や思うことを共有する機会が日常的にあり、常々、現状の永代供養墓(納骨堂、樹木葬(と自称しているもの)なども含む)のありかたに疑問をお互いに抱いていた。
2023年3月、総務省行政評価局が『遺留金等に関する実態調査結果報告書』(以下、『報告書』)を 公表したことでその疑問はますます深まった。
この調査は、近年、一人暮らしの高齢者などの死亡に際して、埋火葬を行う者がおらず、死亡地の市区町村(長)が行うことが増えたこと、それに伴い死亡人の遺留金品の処理・保管に苦慮する市区町村が増えていることから、その実態把握を目的としている。「死後の無縁化」が社会課題となっていることを暗に示した『報告書』。
『報告書』によると、引き取り人のいない死亡人は2018年4月1日から2021 年10月末日までに、合計で105,773名。
そのほとんどが身元が判明していても葬儀や納骨を執り行う親族がない、「引取人のいない死亡者」だった。
こういったこの界隈の統計に詳しい碑文谷創さんの経験からすると「おそらく実際はもっといるはずだが、各自治体のカウントの仕方で数字ブレはおこっているだろう」という見方もあり氷山の一角という可能性もある。
大事なことなので深堀りするが、身寄りがないから引き取り手がないわけではなく、身元が分かっているが親族の意思で意図的に「無縁化」している遺体・遺骨がこの国は増えている。
以前にnoteでも書いたが天涯孤独な真の無縁はおそらく日本ではそう多くない。必ずどこかに血縁者はおり、戸籍管理も発展途上国に比べ整備されて厳密なこの国で身寄りがわからない遺体・遺骨はそう多くないのは当然と言える。
また、別軸の話にはなるが「葬儀のお金がないから」を理由に遺族が故人の遺体を放置し、警察沙汰になるニュースを見たことがある人もいるだろう。
人が亡くなった場合に、金銭がなければ自治体の制度により火葬はなされるが知られていない。
そしてなにより葬儀や墓は「お金がかかる」と思われていることによっておこった不幸な事件ではなく、事故のようなものだと私は思っている。
家族・親族間の関係性の希薄化に貧困が重なる昨今、今後も死後に意図的な遺体・遺骨の「無縁化」は拡大すると推測する。
1人の人の生死への尊厳を守るために貧富を問わず「弔うこと(弔われる権利・弔う権利)」が保証される社会福祉的支援のあり方については前例も少ない。
私たちは長年、弔いに関わってきた寺院(宗教法人)に行政とも連携しながら「弔うこと(弔われる権利・弔う権利)」の受け皿となることを期待し、その考えを広めるために本研究ノートを発表した。
とはいえ、お金儲け主義の永代供養墓や樹木葬もどきなどが増える中なので、現状考察・課題提示・弔うことについての提案を含んだ本研究ノートが宗教法人(寺院)の意識喚起、建設的な議論の契機となることを願う。
私が担当した章は第4章。そこで「弔われる権利」と「弔う権利」について問題提示している。
ここでは論文としては情緒的すぎて書ききれなかった想いを少し残しておく。
「弔われる権利」と「弔う権利」の課題について
例えば。
今日、私が死んだとする。
喪主を務める家族が「直葬」や「家族葬」を選択し、会社にも取引先にも友人にも死亡したことも、葬儀の日時も場所も告げずに火葬を済ませたとしたら。
遺骨は散骨やゆうパックで山奥のお参り自体ができないような場所へ散布・合祀されたとしたら。
15年近く一緒に働いてきた仕事仲間、20年来の親友たち、志同じくしてさまざまな弔いやお寺の話を積み重ねてきた同志のみなさんはどうするんだろう。
私に相談や報告をしたいことがあった時。
私と食事をしたりでかけたくなった時。
私に議論をもちかけたくなった時。
私はどこにもいない。
メールは帰ってこないし、LINEは既読にならない。
せめて私がいた証の墓前で話しかけたくとも墓はない。
もっと言うと葬儀で遺体を見ていないので死んだ実感もない。
その虚無感や戸惑いを想像しただけで胸が痛い。
でも実際にそのような立場になり、精神を不安定にしたまま、「ご家族が決めたことだから・・・でも・・・」という誰にも言えない気持ちを抱えて自分の中のグリーフ(悲嘆)を抱えたまま心から血を流すような思いでいる人は存在する。
弔い界隈では葬儀やお墓の簡易化・パッケージ化による劣化が叫ばれて久しい。
多くの葬儀社や石材店は売上の減少を嘆き、宗教者は檀家からの導師依頼減やお布施減に落胆して、さまざまな新企画やマーケティングを凝らして遺体や遺骨を取り合っている。
でもそこじゃない。
弔いが閉じていくこと、小規模化していくこと、家族だけで送ることの一番の弊害はそこではない。
弔う権利を「家族じゃない」というただそれだけの理由で取り上げられている人が大勢いるということが問題だと私は思う。
人と人が繋がり、支えあって生きてきて最後の別れができない社会になって、意図的に「無縁社会化」していることが課題であって「無縁社会」は自然発生的に生まれたものではないということをもっとよく考える必要がある。
人が1人生きて亡くなる。その事実はその年令、肩書、立場、家柄、人種なにも関係なく尊ばれるべきことだ。
その尊厳を守り、丁寧に弔うのが私たち弔いに関わる人間の本分ではないのか。と思う。
その本分を軸に考えた場合に、お金があれば豪勢な葬儀やお墓を設け、お金がなければ遺体・遺骨処理、という風潮をつくったこと。
つまり業界全体で本分の質の維持よりも産業化を過度に進めたがために今のようなことになっている要因はあるだろうと強く思う。ある意味自業自得なのかもしれない。
でも人は問答無用で皆等しく死を迎える。
嫌だから死なない、葬儀社の世話にならない。ということはできない。
教育や介護同様に本人の力でどうしようもないこと。
それが「死」だ。
であるなら、「死」にまつわる葬送についても社会福祉的に捉えられ、そのあり方を問うていく必要があるのではないかと思う。
ただ、その場合に、教育や介護と大きく異なるのは死者を悼むための「弔い」には多分に宗教行為や文脈を含む。行政が線引をしたい領域だ。
では視点を変えて、寺院(宗教法人)はどうだろうか。
寺院(宗教法人)は信じるところを同じくする人々の宗教活動を守る役割がある。
例えば、檀家や信徒が亡くなった場合に、お金がなければ読経はしないのか。という問いが私には常にある。
そこで「しない」と選択するならその人は宗教者を辞めたほうがいいと思う。
故人や遺族が仏教を信じているなら、その人の精神的な救いを与えられるのは宗教者による読経や法話を介した「あなたの命は尊い」と宣言する宗教行為にほかならない。
例えば対価はなくてもその想いに応えるべき創意工夫があって然るべきだ。
お金がないなら導師は務めないというなら金銭で読経を売買していることになる。
その姿はもう宗教者ではないのではないか。同じことが永代供養含むお墓にも言える。
お寺が永代供養墓を運営するとはどういうことなのか。ただ遺骨を納める場所を提供して決して安くはない金額を寄付していただくだけと捉えているならその場合もそんな永代供養墓はやらないほうがマシだと思う。
お寺が永代供養墓を運営するなら、もちろん寺院維持のための財源にはすべきだ。そうなるように私も宗教性・企画性・戦略性に考慮して寺院を支援している。
ただ、その中で「どうしてもお金がない。でも供養はしてほしい。」という人が現れた場合にどうするのか。
お寺が永代供養墓を運営するということは地域にとって社会にとってどういう価値があるのか。
その想像ができないまま、企画にも盛り込まないまま、ただ安易に永代供養墓や樹木葬(と自称しているだけの実際は墓標が樹に変わっただけの墓)などを墓を売って設けたいだけの業者と結託して推進しているならやめたほうがいい。
その様は結局、宗教者も人の死に対してお金で動くのだと世間に伝えているようなものだからだ。
「お寺も結局はお金か」。
私が講師を務める終活講座に参加した人が実際に私に言った言葉だ。
その人はお寺名義で発行された「98万円 追加費用なし!」と大きく書かれた樹木葬(と自称しているだけの実際は墓標が樹に変わっただけの墓)のチラシを手元に持っていた。
「子供がいない。だから永代供養墓は必要だけど、こうもお金が前にでているとなんだか嫌で動けていないから今日勉強しに来た」とその人はおっしゃった。
こういった感想は珍しくない。
「死ぬのも大変ですね」と嘆息する生活者の声を私は幾度も聞いてきた。
こんな感想を多くの人に抱かれていることを宗教者は、石材店は、葬儀社は、業界外からやってくるコンサルを名乗る人々は知っているのだろうか。
自分たちのふるまいが自分たちの本分を求める生活者から敬遠されて「やむなく」わかりやすいネット葬儀や自治体の合葬を選んでいるのだとしたら、売上も上がらず、信頼も下げて何をしているのだろうと思う。
その結果、弔うことも弔われることも諦める故人・遺族が増え、無縁化し、行政負担が増える。
そのうち行政負担で処理する遺体や遺骨を増やさないために宗教者の関与する余地もない生前登録制度が増えてもおかしくはない。
より効率的により合理的に最低限の火葬・合葬を選択する人が一般も檀信徒も関係なく増えてくるだろう。
そうして待っているのは供養産業と弔い文化の衰退、そして「弔う権利」と「弔われる権利」の剥奪だ。
業界の衰退を憂い、「新しい何かをお墓に取り入れよう!葬儀を明るく見せよう!」とする人もいるがそれも本質的ではないと思う。
人々は人の死を自分の心情にそぐう形で丁寧に、大切に弔われ、弔いたいだけなのではないか。
過去の業者や宗教者優位のあり方に嫌気がさしているだけで、過剰なものも新しいものも求めていないのではないか。と私は現場にいて思う。
不透明なお金や威圧的な宗教者の態度や、わかりやすく見せて粗悪な弔いが数多くあるから「できるだけ負担がないように」と消極的な動きが大きくなるのであって、お墓や葬儀にいつかは廃れるイマドキさもエンタメさも不要だ。
どう装飾したってよけい陳腐になるだけ。弔いの本質から乖離するくらいなら、余計なものはいらないと私は思う。
私は小川さん含め、このあたりの感性が合う僧侶や葬儀社、石材店と幸運にも繋がっている。
彼らは上記のような混沌とした状況でも自分の本分を見失わず地道に活動し、組織としても存続して、日本の弔いを守っている。彼らは社会貢献だなんだと声高に叫ばない。
眼前にいる故人や遺族に敬意をはらい、お金がない方にもときには行政と連携しながら、戦いながら自分たちにできるだけのことをする。
尊敬できる彼らと共に、引き続き、私も現場で丁寧な弔いを支援しながら、たまに今回のような研究領域で言論を通して業界や世に伝え、「弔うこいうこと」の本来の価値を見つめ直し、次世代に残す一助でありたいと思う。
その意味で今回の研究ノートは研究者でもない私の想いに共感してくださった小川さんはじめ研究所が書かせてくださった貴重な機会だ。感謝しかない。
この研究ノートの発表が同じ思いで弔いと真摯に向き合ってくださる方と出会い、試行錯誤していくきっかけになれば幸い。
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