招かれざる客 2025.1.23
前日のテキストがあがっていなかった。午前中はフリーなのだから、さっさと前日の分は書き上げて劇場で稽古を観察しようと考えていた。結果、そうならなかった。では、劇場で書き上げれば良いのだが、半日劇場にいるとはいえ、前日のアウトプットと当日のインプットがそんなに同時にスムーズにいくわけはない。わかりきった話だ。
というわけで、稽古前にサイゼリアへ駆け込む。全体の50%程度は進んだかなというところでタイムアップ。基本的にはマルチタスクは苦手な癖に、ながらでいろんなことをしてしまうせいで進みが悪いなんてことはしょっちゅうだ。音楽を聴きながら、食事をしながら、考え事しながら、それ以外にも頭に浮かんだ作業をその場で他動的に着手してしまうので、全体の作業進行は遅れに遅れる。一つ一つ片付ければ集中力も過度に消費せずに済むであろうに、そういう性質になってしまっている。困ったものだ。とはいえ、自分の足を引っ張る自分との付き合いも、随分と長くなっている。
前回の話題から連続であれだが、作家の大江健三郎は何かをしながら何かをすることがない、というのを何かの本の帯で誰かが書いていたのを読んだことがある。本を読むなら本だけを読む、小説を書くなら小説だけを書く、音楽を聴くなら音楽だけを聴く、食事をするなら食事だけを。ということなのだろう。自分とは大きな違いだ。自分もできることならそうありたいが、現状そうあれていない。そのことを時代と文明の発達のせいにはできないだろうなあと思う。
結局書きながら、マイブームであるバッハを聴いたり、バッハの生涯なるyou tubeをイヤホンで垂れ流しにして意識があっちこっちしながら残り時間を終える。カフェや飲食店でパソコンを広げたり、作業をすることへの後ろめたさは多少あるが、しょうがない。
稽古場へ到着すると、山田さんと五味さんが体操中。自分はその間ロビーで続きを書く。その後、昨日の終わりにプレゼンテーションされていた新しいパフォーマンスの構成について話す。プレイ時間より、圧倒的にディスカッションする時間が長いのがこの現場の特徴である。与えられた時間、自分で作り出した時間をいかに使うか、このことに関してはこれまで出会ってきたどのアーティストも違っていて大変興味深い。
私たちは日常的に言語を使ってコミュニケーションを成立させている。その他の要素も多分に含まれてはいるが、言語の比重が大きいのは実感としてある。しかし、同じ言語を使っていても、各人の前提や文脈、言葉選びによって同じものをイメージしているとは限らない。演劇は集団創作が基本なので、そのことをいつも突きつけられる。コミュニケーションは努力である。そういった演出家・蜷川幸雄の言葉は的確だ。
お馴染みとなった、名刺カードを使って情報の整理に取り掛かる。ストーリー/パフォーマンス/観客体験の三つの要素に分類し、全体と細部をビジュアル的に見える化してパフォーマンスの方向性を探っていく。今回は特定の戯曲を立ち上げるわけではなく、各地に散らばり多様な鶴女房の民話や語りの文化、歴史などを幅広くテキストとして使用しているため、何を脚本や型と呼べば良いのか、何を演出プランと捉えるか、何を再現とし何を即興と考えるかが空中に散開してしまう。
今日はその情報や共有できることの着地点を見つけるのに時間いっぱい使うこととなった。長時間に及ぶディスカッションの成果もあって、明日以降の方向性がまたクリアになったといえる。
ここでふと自分は創作の中身に口を出してやしないか、とちょっとした疑問が浮かぶ。大前提として自分は批評家ではない。が、活動批評するという立場でこの場に関わっている。よく批評家というのは、稽古場や創作現場にとっては招かれざる客である、という話を聞く。アーティストとヘタに仲良くなったり交流を持ってしまうと、思ったように文章を書けなくなったり、酷評できなくなったりする。ということもあるだろう。とはいえ、今回のカンパニーは自分にとっては随分前からの関係性があり、その関係値というのも創作者同士として積み上げてきたものだとも思う。そして、自分は自分のことを作り手であると思っている。しかし、批評というのもまた、文学になりうるし、それ自体を作品だとも考えている。それは自分が小林秀雄に大きな影響を受けているからだということも自分の中で明確である。
まあ結局この場で結論めいたものも、批評・評論行為に関する自分なりの私見や思想を明確に提示できるわけではないけれども、現代における批評の確立の難しさ、機能不全についてはこれを機に考え進めても良いのではないかと思っている。そもそも、招かれざる客とかいう前に、自分はこの場にとって招かれてきているわけでも、客でもないわけだ。自分は批評行為とはなんであるのかということに、自分なりの思想を持ちたい。そしてそのためにこの場を利用させてもらっているともいえる。
夜休憩は山田さん五味さんと共にキャルシティのとんかつ屋さんへ。制作的な打ち合わせ。最終日のトークについての話。メニュー表をみながらギャーギャー言う。
「1,600円のカツ丼なんて、福大の近くの店の三倍だ。」と僕。
「中打ち上げだよ。」と山田さん。
「人気店だから食べながら打ち合わせとかしてたらあれだから、先に話そう」と五味さん。しかし、すぐさま山盛りのキャベツが到着。キャベツを食べながら話していると料理到着。
「どうなの三倍のキャベツの味は。」と山田さん。
「三倍するだけはありますね。」と僕。
食事後、山田さんはコンビニへおやつを買いに消える。五味さんと別れ劇場へと戻る。
夜は真吉のダンスの変更点を二箇所抜粋してプレイ。のちディスカッション。和的な振りと洋的な体が織り込まれていくパフォーマンス。振り付けの順序などを整理していく。見せたくない姿の反対は見せたい姿か?本当の姿か?
演出家は扉を閉めるということの意味について問い、織り込むというところに虐げられてきた女性的なイメージを想起する。思えば、川端商店街を通って真っ直ぐ行くとアジア美術館がある。アジア美術館のコレクションには、織物や毛糸を使ってその国、その時代の女性のあり方を表現した作品が多数存在していると言うことを思い出す。織り込む、刺繍というものにはどこかシンボリックな役割があるのだろう。これは国を超えても共通の感覚だ。
この日の最後は、音楽の可能性について。普段、ダンサーが音楽とどのような距離感、関係性で創作活動をしているのか、そのことがちょこっとしれて興味深かった。
そして、今日の稽古場終了。いつもより少し早めの解散。は、なにかを忘れている。
、、、テキストが仕上がっていない。
マクドナルドへ急ぐ。
店内では既に蛍の光が流れている。
注文して机につく。
勿論、悠長に音楽なんて聴きながら作業をしている暇などはない。
閉店間際、駆け込んできて作業を始める迷惑な客。招かれざる客、それが私だ。
最後に自動で開かなくなったドアを手動で開けてくれたお姉さん、どうもすみません。
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