小説『空生講徒然雲16』
東京タワーの足下にヤマハSR400に跨がる女がいる。
女の身体はゆるんだままガソリンタンクに突っ伏しており、顔はセパレートハンドルの付け根中央のトップブリッジで横を向いていた。女の鼻から規則的な小さな息が漏れ出ていた。どうやら虚ろ状態から女は眠りだしたようだった。
「綺麗だ」私はそう思った。女ではない。いや、女でもいいのだが、この場合の綺麗はヤマハSR400のことを言っている。確かに女の寝顔は綺麗なのだ。しかし、知らない行者の女の寝顔をしげしげ見るのは、趣味が悪い。
ガソリンタンクには『YAMAHA』のロゴがあった。やはり98年式だ。初代を彷彿とさせる。車体には所々カスタムが施されていた。セパレートハンドルも趣味がいい。ヘッドライトカバーの膨らみも十分だ。タックロールのダブルシートは『K&H』製で上品に仕上がっている。マフラーはノーマルで控えめな排気音がする。閑静な町に住んでいたのかも知れない。デコンプレバーを取り外している所から見ると、もう、このヤマハSR400を知り尽くしているのだろう。
私はしゃがみ込んで磨き込まれたエンジンを眺めながら。ガソリンタンクを撫でた。「タンッタタン」とヤマハSR400が喜んでいるように鳴いた。
その拍子に、起きた者がいた。不思議なことにそれは、───女ではなかった。
一匹の青猫が「みやおう」と啼いて女の胸元からもぞもぞ這い出してきた。そして、私の顔を見て目をぱちくりさせている。
青猫は一瞬息を吸うと、つぎの瞬間には私の頭に飛び乗った。
正しくは私の頭ではない。その宙空にうかぶ『?』の間でくるんと見事に収まっている。ジャストフィットしている。ゆ魚とホタルイカが興味深そうに近づいてきた。珍しい客人に挨拶をしているようだった。
寝ぼけた声が漏れた。女の声だった。
「タルト」、青猫の名前だろう。
「みやおう、みやおう、みやおう」と青猫たるとは女に応えるように、3度啼いた。女が身体をくねらせる。青猫たるととヤマハSR400がそれに応えるように鳴く。女は目覚めそうだ。
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