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大輔とさつきの吉備路散歩 その1   備中高松城と最上稲荷

大輔とさつきの吉備路散歩 その1
備中高松城と最上稲荷

小説「翔べ! 古代吉備国へ vol.1.51」

舘 秀樹

 大輔とさつきが、古代吉備の国に旅をしてから一カ月が過ぎようとしていた。誰とも共有できない、不思議な体験をした二人は、単なる幼馴染から、お互いを思いやるパートナーに成長していた。三交代と日勤という勤務状況ではあるが、うまく時間を合わせて散策に歩くのが二人の楽しみになっていた。
 休日の朝、大輔が、デイバッグを肩にかけて階段を降りると、父親が玄関の上がり框に座って、軽登山靴を履いていた。
「父さん、今日はどこの山に行く予定?」
「うん、今日は児島に行ってくる」
「へぇー、児島の何という名前の山?」
「今日は、山じゃないんじゃ。下津井電鉄の廃線跡が遊歩道になっとってな。これが『風の道』とか、ぼっけぇ気持ちがいい名前が付けられとるんじゃ。ネットで調べてみたら、旧児島駅舎や下津井駅跡もそのままの形で保存されているし、当時の電車もたくさん展示されているみたいなんじゃな。途中、鷲羽山からの瀬戸内海の景色もいいしな、軽くウォーキングしてくるわ。おっ! 大輔は、山か?」
「いや、今日は、僕も最上稲荷まで、軽く吉備路をウォーキングしてくるよ」
「そうか、気をつけてな。最上稲荷か、そやったら、もし、ゆずせんべいを見かけたら買ってきてくれ。母さんが好きやからな。母さんに、今から一緒にウォーキングに行かんかと誘ったんやけどな、今日は調子が悪いとかなんとか言って、家で留守番しとるらしいよ。『今日は』ではなく、『今日も』なんやけどな。少し歩いて運動した方が身体には、ええんやけどなぁー! まあ、しゃあないか」
 玄関前で父の車を見送っていると、
「おはよう! いい天気になってよかったね」
 と、さつきが歩いて降りて来た。運動がてら、一緒にゥォーキングしようと昨夜、話したのだった。
「大ちゃん、今日は私が腕によりをかけて、お弁当を作ってきたからね。楽しみにしていてね」
「へぇー! それはすごい! お昼はどのあたりで食べるようになるかな? 外で食べると、どこで食べても美味しいよね」
「そうそう、今日は、しっかり汗をかくぞ! 大ちゃんよろしく!」
 さつきは、朝のすがすがしい空気をお腹いっぱいに吸い込みながら言った。
「さて、それでは、今日は、僕の得意な『備中高松城跡』と、おなじみの『最上稲荷』に行ってみよう! ちょっと距離があるけど、いい運動になると思うよ」
 木立に覆われた小径を、鳥のさえずりを聴きながら、ゆっくり下っていくと、道はT字路となり、東西に走る旧道に出会う。
「これが、あの有名な『旧山陽道(西国街道)』なんだ」
「有名って? 私にとっては全然有名ではないんだけど……」
「そうなんだ。さっちゃん、信長が殺された本能寺の変は知っているよね。その後、毛利と対決していた秀吉が、信じられないような速さでこの備中から京都に移動したんだな。いわゆる『中国大返し』だよ。その時に、この旧山陽道を駆け抜けた。この道を、秀吉の大群が走り抜けて行ったんだ。想像するとすごいと思わないか? 僕たちは、そこに立っているんだからね」
「そういわれてみると、すごいね!」
 さつきも、大輔と同じように、目を閉じて、往時の様子を想像している。
 二人は、旧山陽道を西に向って歩を進める。旧道なので道幅が狭く、車の通りは比較的少ない。時折通過する軽トラックをやり過ごしながら談笑にいそしんでいると、
「おっ! 大輔! 今日は、さっちゃんとデートか? ええなぁ、若いということは……」
 一輪車の上に肥料袋を乗せたおじさんが右の路地から出てきた。
「おはようございます。今から畑ですか?」
「そうや、自分で作った野菜は、でぇれー、かわいいぞ、じゃぁ、気をつけてな!」
 二人とも近所なので知り合いが多い。歩きだすとすぐ、右の家から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。なんとものどかな雰囲気だ。ウォーミングアップ気分で数分歩いていると、「国指定文化財(史跡)真金一里塚」の標識が見えてきた。

国指定史跡 真金一里塚

 一里塚というのは、江戸時代に主要な街道に築かれた一里(四キロメートル)ごとの道標のことだ。江戸を起点に、一里ごとに塚を築き、目印として道の両側にエノキと松の木を植えた。
 この一里塚は、真金村にあったので「真金一里塚」と呼ばれている。岡山城下からは、万成に次いで二番目にあたり、旧山陽道(西国街道)を狭んで、塚を二つ築き、北塚に松、南塚に榎が植えられていた。(現在の木は後世のもの)

「こうして江戸時代のものが、そのまま残っているなんて、すごいよね。道幅も、その時のままなのよね」
「そうなんだろうな。この道は、今の地形から考えると、広島県の福山方向に行くのなら、なんだか遠回りをしているみたいだけど、当時の海岸線からするとこのルートになるんだろうなぁ。もしこの塚に植えられている木が、当時のまま残っていたら、ものすごく歴史を感じるんだけど、松は虫に弱いし、榎はぐすいから、世代交代したんだろうね」
 二人は、まだ小さなかわいい松と少し大きな榎を眺めながら道を西に向かった。道は、軽いアップダウンを繰り返している。
 数分歩くと吉備津神社の一の鳥居が見えてきた。大きな石の鳥居で、南に向かって参道が続いている。
「私、なんでこんなところに一の鳥居があるのかと、子供の頃から思っていたのよ。普通だったら、もっと大きな道の入り口にあるんじゃないのかなと、不思議に思ってた」
「昔は、ここが西国街道で、一番大きな道で、にぎわっていたんだよな。山陽道を通って多くの人がここから吉備津神社を目指したんだ」
 大輔は、二の鳥居の方向を見ながらつぶやいた。参道の両側には、立派な松の木が並んでいる。
「その頃は、ここから先の参道は、いっぱいお店があったんでしょうね。そう考えると納得」
 目の前には、吉備線の踏切があり、渡って右に曲がるとJR吉備津駅がある。旧山陽道は、線路の北側に沿って、道はやや上りながら続いている。
 JR吉備線は、別名「桃太郎線」とも呼ばれていて、車内アナウンスの前に「もーもたろさん、ももたろさん」のメロディが流れてくるのだ。観光客は、それを耳にして思わず笑みがこぼれる。
 吉備津駅を左に見ながら少しずつ下って行くと、道は左に曲がって、吉備線の線路を横断した。
 踏切を通り越したら、道は右折し、今度は吉備線の南側を並走する。時折聞こえてくる電車の通過音や踏切の音を耳にしながら、二百メートルほど西に向かって歩いていると、三差路があり、幅五メートルほどの水路に出くわす。
 水路は、南北に通っていて、三差路の左角には「旧山陽道 板倉宿」と立派な標識があった。水路には小さな橋が架かっていて「板倉大橋」とある。(大橋と呼ぶにはちょっと無理があるかな?)

旧山陽道 板倉宿
 
 この三差路には、燈籠や道しるべ、白壁に虫籠窓やなまこ壁が残っていて、この板倉宿が繁栄していた頃を偲ばせる。道標には「金毘羅大権現 吉備津宮 瑜伽大権現」と彫られている。
「大ちゃん、旧山陽道板倉宿の立派な案内板が作られているよ。ちっとも気が付かなかった。ちょっと読んでみようよ」
「宿場町板倉:板倉の地名は、平安時代には『板倉郷』とされ、源平合戦では、地元の豪族が木曽義仲と戦って討ち死にした場所として知られている。
 江戸時代になると、西国街道(山陽道)が
通り、備前国から備中国に入り、国境に近い備中最初の宿場町の板倉宿として広く知られるようになった。
 宿場町は、備中松山(高梁市)往来の起点(真金十字路)であり、南に行けば庭瀬陣屋町があるという交通の要地であったことから繁栄した。
 江戸中期には、本陣・脇本陣各一軒、旅龍屋の数も七十軒に及んだ。そのほか茶屋も次第に増加し、板倉町とも呼ばれるようになった。
 宿場の東端には、真金一里塚 (国指定史跡)が残っている。道を挟んで南北ー対の塚、北塚に松、南塚にエノキが植えられていた。
 現在も、塚から西にかけては、宿場
町の面影が色濃く残っている」

「この周辺は、当時の雰囲気がよく残っているよな。でも、道幅が狭いから、これが旧山陽道とは、誰も思わないだろうね」
 二人は、再び歩き始めた。道の両側には今風の住宅が並んでいる。約三百メートルほど歩くと右側に「旧山陽道板倉宿 本陣跡」の標識があった。鯉山コミュニティハウスのある場所が、板倉宿の本陣を務めた東方家の跡地とのこと。
 さらに進むと、国道一八〇号線に出合う。旧山陽道は、一八〇号線を横切って、その先もまっすぐ続いている。
 その角に道標があり、小さなお堂があった。
「右 松山江八里 足守江二里 
 南 庭瀬江三十丁 
 西 井山宝福寺江 二里半」とある。
「ここが、さっきの説明に書いてあった『真金十字路』だな。旧松山往来と旧山陽道の交差点になるんだよ。ここは、片側一車線だけど、車の交通量が多いんだ。横を車がひっきりなしに通って落ち着かないよね。でも近道だし、一応、旧松山往来だから、この道を歩くことにするかな。とりあえず道を渡ろう」
 信号を渡ると、旧山陽道が同じような雰囲気で続いている。
「このまま山陽道を歩くのもいいかなって思ったんだけど、それはまた次のお楽しみにしよう!」
「はーい! 今度の楽しみね」
「旧松山往来という古い雰囲気の道の分岐点まで約一キロ弱かな? 車の音を聞きながら十分くらい、この細い歩道を歩かんといかんのよ。申し訳ないけどがまんしてね。少し速足で行くから、僕の後ろをついて来てね」
「昔の人は、この道を高梁市まで歩いていたのよね。すごいなぁー! 皆、健脚だったんだね」
「江戸時代の人は、男性だと日に三十キロから四十キロ、女性でも日に二十五キロ以上あるいていたらしいよ。靴なんかなかったので、わらじで歩いていたんだ。二日に一足くらいは履きつぶしていたらしいよ。今度、高梁まで歩いてみる?」
「うーん…… また今度ね」
 しばらく二人は、前後一列になって黙々と歩道を歩くのだった。横を大型トラックが通り過ぎる。風圧で帽子が飛ばされないように手で押さえながら黙々と歩く。散策というよりは、体力維持のウォーキングといった様相となってきて、さつきは、
「あとどのくらいかなー!」
 などと独り言をつぶやいている。少し汗がにじんできた頃、大輔が振り返った。
「ここから左に曲がると、松山往来の道なんだ。旧山陽道のように狭い道が続いているやろ。今日は、僕たちは備中高松城跡に行くので、道を渡って右に進むからね」
 二人は、押しボタン式の信号のところまで少し戻って、国道一八〇号線を横断した。横断歩道の先には小道が北に伸びている。
 すぐに吉備線の踏切があり、横切ると右に水路と小山の木々を見ながら道が続いていた。いつの間にか車の走行音は消えていた。
「ふうー! やっと静かな道になったね。やっぱり吉備路散歩はこうでなくっちゃーね。大ちゃん!」
「そうやね。ここからはのんびり行こうや!」
 左右に横切る水路に小さな橋がかかっている。橋を渡ると、左に小径が分かれているので、この小径を横に、水路を右に見ながらゆっくり歩く。
 小径は左に曲がりながら山陽自動車道の高架の下を潜って続いている。左右水路に挟まれた小道を二人で並んでのんびり歩く。
 涼やかな風が二人の頬をなでた。小鳥のさえずりを聴きながら、病院でのよもやま話に盛り上がる。
 いつの間にか両側の水路は、右側だけになっていた。左は一面の田んぼが広がっていて、前方や右には中国山地らしい、なだらかな山峰が連なっている。五分ほど歩いていると小径の交わる小さな十字路に出くわした。大輔は、
「このあたりから山の方に移動しておこうかな?」
「小さい頃は、この辺を走り廻っていたよね。あぜ道や水路の横やら、道なき道を自由に駆け巡っていたね。でも初めて来た人は、分かりにくいかも?」
「この辺まで来て道が分からなくなったら、Google Map で『蛙ヶ鼻突堤跡』で検索したらすぐに道がわかるよ」
 水路にかかる小橋を渡り、すぐ前に見える山の方向に歩く。山に沿った道を、左折する。車の通れる大きな道に出たので、ほっと一息。
 そのまま右に山肌、左に田んぼを見ながら道は、左右に曲がりながら続いている。歩を進めると、左にこんもりとした高さ五メートルほどの堤が見えてきた。
「はい、到着しましたー!」
 大輔は、道から左に入り、堤に沿って歩いて、発掘跡や説明板のある所に向った。きれいに整備されていて木々に覆われた堤が時代の流れを感じさせる。
「さて、ここから備中高松城に関する史跡を巡るんだけど、簡単にそのあたりの歴史を復習しておこうか?」
「よろしくお願いします。私は、そのあたりの時代は苦手なのよね」
 さつきも堤を見ながらペットボトルのお茶を大輔に渡した。大輔は、お茶を飲みながら話し始めた。
「織田信長が、天下布武を唱えて、日本統一に動きだしたところから説明するよ。
 羽柴秀吉(はしばひでよし)は、信長の命を受けて、中国地方を平定するために中国攻めに向かったんだ。
 当時、中国地方は毛利氏が、ほとんどの地域を支配していたので、当然、毛利氏との戦いになるわけだな。
 秀吉は、鳥取城を落城させた後、一五八二年に、この備中高松に布陣した。備中高松城は、備前と備中のほぼ中間にあるため、とても重要な城だったんだね。
 秀吉は、毛利との戦いがあるので、できるだけ兵力を温存したかったんだ。できれば話し合いで解決したかった。それで高松城の城主である清水宗治(しみずむねはる)に使者をおくって降伏を勧めたんだよ。
 ところが、宗治はこれを拒否してしまった。それで高松城をめぐる戦いが始まったということ」
「こんな田舎の小さなお城なのに、話し合いで解決できなかったのかな? そんな大群が相手なら、絶対に勝てないと思っただろうに……」
 さつきは、首を傾げた。大輔は、遠くを指さしながら言った。
「あそこに見えるのが足守川だよね。あのむこうには毛利の軍勢が助けに来ていたんだ。向こうの山なんか毛利の旗がぎっしり立ち並んでいて、見るからに大群で、心強かったんじゃないかな。それに今までの付き合いやら、なんやらあってそう簡単には降伏して明け渡すわけにはいかんかったんやろな。殿様やからね」
「二つの大群に挟まれて兵士は、どんな気持ちやったんやろうね。私は耐えれんな……」
 大輔は再び話しだした。
「秀吉は、まず備中高松城の周囲の山城を落城させてから、高松城を約三万の兵で取り囲んだ。
 高松城は典型的な沼城で、四方を沼地と堀に囲まれていて、城に入るためには、橋を渡らなければならない。当然、戦いが始まると、この橋は落とされるので、攻める側としては多くの兵の損失を覚悟しなければならないわけ。
 そこであの有名な軍師の黒田官兵衛が、秀吉に水攻めを提言したんだ。高松城は浅い盆地の中心に位置していて、水の唯一の出口が、この蛙ヶ鼻だったんだ。それで考えたのが、城の南に大きな堤を作って、足守川をせき止め、城を水浸しにするという作戦。
 秀吉は、地元の農民に、一俵二百文(米一升)の賃金を払ぅて、堤防を、なんと十二日間で作り上げたらしいよ。目隠しをしていたため工事の様子は、城からは見ることができなかったらしい。
 目隠しを取り払い、足守川の堤を切ると、梅雨時だったので、僅かな期間で増水し、城の石垣や建物が浸水してしまった。びっくりしただろうね。兵は戦意を失うよな。
 それでしかたなく六月四日に、講和を受け入れ、宗治は切腹したんだよ。
 この時、清水宗治は、湖のようになった城外に舟を浮かべ、秀吉の本陣近くまで漕いで行かせ、本陣の前で自害したと言われているんだ。
 その後、六月二日本能寺の変での信長の死を知った秀吉は、毛利氏との講和を速やかにとりまとめ、明智光秀を討つため、山陽道を京都へ、全軍約三万の兵を引き返させた。これが有名な『中国大返し』だよ。
 約十日間にわたる軍団大移動で、備中高松城から山崎(京都府)までの約二百三十キロを踏破した、日本戦史上屈指の大強行軍として知られているんだ。今日僕たちが通った、あの道を秀吉の大群がかけ走ったんだよ。まあ、ざっとこういうストーリーなんだけどね。『高松城の水攻め』というと知らない人は、いないと思うよ。唯、四国の高松と間違えている人もいるらしいんだけど……」
「お城が水浸しになったら兵のモチベーションが落ちるやろうね。お城の床上浸水なんて想像できんね」
「想像を絶する光景やろな。そうそう、蛇やネズミが逃げてお城に集まってきたらしいよ。お城の本丸の床の上をムカデや蛇がゴゾゴゾと……」
「いやーっ! やめてー! 私は、蛇やムカデが大嫌いなんよ! 想像しただけでも鳥肌がたってきた!」
 さつきは、腕をさすりながら首をすくめている。
「それにしても、こんな近くに有名な史跡があるなんて、灯台下暗しやね。あっ! あそこに何か標識があるよ。読んでみよう!」

蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤跡
国指定史跡:高松城水攻め史跡公園

 黒田官兵衛の提案により、秀吉は蛙ヶ鼻から約三キロの堤防を築いたとされている。
 蛙ヶ鼻は、石井山の南に位置し、堤の唯一残った史跡だが、実際は蛙ヶ鼻は自然な地形で、ここから堤防が造られたといわれており、岡山市の調査でも、幅二十四メートルにわたる土俵の跡を発見している。

「なんだか、こんもりと木が茂っているので、ここに高さ七メートルもの堤があったとは想像しにくいかな?」
「昔はもっとしっかりした堤が残っていたらしいんだけど、明治時代に鐡道を通すことになって、その時に堤の土を使ったらしいよ。それでここしか残っていないんだよ」
 それでも、現在は、公園として整備されており、杭の列や土を入れた土俵の跡などが復元されている。高松城の本丸と築堤の高さを比較できる場所もあり、当時の様子を思い浮かべることができる。堤の横には、「高松城跡 高さ表示板」と書かれた標示板が設置され、「本丸最上高 七メートル」との表示があった

「さて次を巡ろうか?」
 二人は元の道に戻って、山際の道を歩き始めようとした時、さつきが、
「あつ! あれはトイレかな? なかなか昔の農家のトイレみたいで懐かしいデザインやね」
「ほんとだ。これはなかなか渋い雰囲気やね。いってみる?」
「まだ大丈夫!」
 二人は、右に山の木々、左に田んぼというのどかな道を歩む。百メートルほど行くと、道は少し狭くなり両側は住宅が迫ってきた。幅二メートルほどの細い路地を進むと、T字路にぶつかる。そこを右折すると、お寺があり、道の突きあたりに標識があった。
「太閤岩入口」と手作り風の木の看板が出迎えてくれる。
 さつきは、足元を確かめてから大輔を見た。
「昨日、軽登山靴を履いてくるように言ってたわけがわかった。こういうことだったんやね」
「そうなんだ。ここからは登山道になるからね。スニーカーでは滑って危ない。転倒して、また骨折をさせたりしたら、おじさんたちに申し訳ないからな。骨折は、癒合してはいるけど、十分な強度にはまだ達していないと思うんだよな。僕が先に行くから、後ろで僕のザックを持っていてね。さあ行くか!」
 目の前には、幅一メートルもないような山道が、森の奥の方に続いている。右には、お寺の建物があり、里山によくある裏山に伸びる道といった風情だが、一般の観光客には、ハードルが高いかもしれない。
 細い山道を足元に注意しながら、ゆっくり登って行く。約十分程上ると、
 いきなり目の前に「宗治公首塚跡」と書かれた駒札が現れた。
「えーっ! 最初から物騒な場所が出てきたね」
 さつきが、大輔の後ろから顔を出している。さすがに、修羅場をくぐってきている救命看護師である。首塚ぐらいでは微動だにしないようだ。
 清水宗治公首塚跡の説明板には、
「天正十年(一五八二年)六月四日)、講和の条件として自刃した清水宗治の首級は、秀吉の本陣、石井山持宝院境内において、秀吉の首実検の後、手厚く葬られ、一基の五輪塔を建立されたといわれている。
 その後、地元の偉人を称える郷土愛は、宗治公の顕彰へと進展し、明治四十二年備中高松城本丸跡へ首塚の移築がなされた」と記されている。

「本来なら、首は塩漬けにして信長のもとに運ばれたんだろうけど、本能寺で死んでしまっているから、ここに埋葬されたんだろうね。ここには石碑しかないから、五輪塔も一緒に移築されたんだろうな」
 二人は黙礼して左の道を進んだ。坂を少し上ると開けた場所に出た。
 
秀吉公本陣跡

「秀吉公本陣跡」「真言宗持宝院跡」と書かれた木の高札があり、その奥には幟旗がはためいている。
「ここが石井山の本陣だった場所だよ。今は樹々が茂っていて、それほど広くは感じないけど、ここに持宝院というお寺があったんだ。さっきの太閤岩入口と書いてあった処の横にある寺が今の持宝院だろな。
 ちょうど備中高松城跡が見えるように、北西側の木は伐採してくれているよ」
「あーっ! あれが高松城跡でしょ。すごくよく見えるね。ここからだと、すぐ目の前にあるような感じやね」
「あの高松城の周りは、全部水だったんだから、湖の中にぽつんとお城が浮かんでいたような景色だったんだろうな。そこから、清水宗治を乗せた小舟が、その前まで来て、秀吉たちの目の前で切腹して果てたんだ。部下が揺れる船の上で介錯したんだろうけど……」
「秀吉の三万の兵の目の前でしょ」
「この石井山だけではなく、周囲の山には兵がひしめいていたんだ。それに、あそこに見える足守川の向こうには、五万の毛利軍が見守っていたんだなぁ。川の向こうの山々にはおびただしい数の幟旗が林立していた。それらの見守る中での自刃ということ」
 二人の目には、おびただしい数の幟旗や数万の人の息吹、湖の孤城と化した高松城、そして目の前に漕ぎ進んでくる小舟が見えていた。二人の胸中には、平和な今の世の中が、数知れないこのような悲惨な歴史の上に成り立っているということを再確認する気持ちでいっぱいになっていた。
「さあ、今度は『太閤岩』に行くよ」
 うっそうとした山道に戻り、尾根歩きのような小さなアップダウンを繰り返すこと約十分。太閤岩に到着! 途中には標識があるため道に迷うことはない。標識には、「宗治首塚まで三百メートル、太閤岩まで百五十メートルとあったので、四百五十メートルほど歩いたことになる。

太閤岩

 説明板には、以下のような解説が記載されていた。
「この大岩は、一五八二年に、秀吉が織田信長の命により、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を攻めた時の、秀吉ゆかりの伝説の地である。
 備中高松城は、三方が山に囲まれた盆地の平地にあるが、周囲に湿地や水沼が取り巻いていて容易に近寄り難く 三万ともいわれる秀吉の大群でも容易に攻め落とせなかった。
 そこで、秀吉は、城の周囲に水を溜め城を孤立させる「水攻め」という奇策に打って出た。
 その時、秀吉は、龍王山から石井山に本陣を移したが、付近にあるこの大岩が着目され、作戦上の目標物として活用したのではないかと言われている。
 秀吉は備中高松城を開城させたのを皮切りに、天下人の途を歩み、やがて太閤と呼ばれるようになった。
『太閣』の名がつく秀吉ゆかりの場所は、全国谷地にあるが、この大岩も里人によって『太閤岩』としての名が伝えられてきたのであろう」

 大輔とさつきは、これを読んで顔を見合わせた。二人の顔は完全に笑っている。
「大ちゃん、これって何だかわかったような、わからないような不思議な説明やね」
「僕もそう思うよ。この岩を、どんな作戦に使ったんだろうね」
「私は思うんだけど、古代の信仰は、山とか巨岩とかを対象としていたのよね。奈良の大神神社は、三輪山が神だし、吉備の中山や、楯築遺跡(たてつきいせき)の巨岩も磐座(いわくら、磐倉/岩倉)といわれているのよね。
 だから、この太閤岩も古くからあって信仰の対象とされていたのかも……」
「うん! そうかもしれないな。太閤と名の付く岩や場所は結構いろいろなところにあるみたいだから……」
 二人は、森の中に埋もれたようにたたずんでいる「太閤岩」に別れを告げて下山にかかった。山道なので気を付けないと滑りやすい。
 さつきは大輔のザックをしっかりつかんでいる。大輔も慎重にゆっくり降りたので、無事「太閤岩入口」まで下りてくることができた。
「さあ、それでは注目の『備中高松城跡』に行こう! とりあえず県道二四一号線 長野高松線に出ようかな」
 右に道を進み、地神様の前を通って、小橋を渡ると県道にでる。左を見ると最上稲荷の大鳥居がドーンと目に飛び込んできた。
 すかさず大輔は、スマホを取り出し、読み上げる。どうもこの瞬間のために準備していたようだ。
「最上稲荷のシンボルのひとつで、昭和四十七年(一九七二年)に建立された。高さ二七.五メートル、柱の直径四.六メートル、総重量二千八百トンの規模を誇る。平成二十六年(二〇一四年)に改修工事が行われ、ベンガラ色に塗りかえられたということでございます」
「最上稲荷の大鳥居は、日本三大鳥居のひとつとか言ってた友達がいたけど、ほんとかな?」
「残念ながらそれは、まだ未確定なんだ。鳥居の高さでは、
一位 熊野本宮大社(和歌山県田辺市) 三三.九メートル
二位 大神神社 (奈良県桜井市)三二.二メートル
三位. 弥彦神社 (新潟県弥彦村) 三〇.二メートル
四位. 最上稲荷 (岡山県岡山市) 二七.五メートル
 ということなんだなぁー! 残念ながら。他にも

日本三大鳥居
・金峯山寺(奈良県吉野郡)
・厳島神社(広島県廿日市市宮島町)
・四天王寺(大阪府大阪市天王寺区)

日本三大木造鳥居
・春日大社(奈良県奈良市)
・厳島神社(広島県廿日市市宮島町)
・氣比神宮(福井県敦賀市)
 といっきに説明した。
「日本人は、三大○○というのが好きなのかな?」
 
 県道二四一号線 長野高松線を右に五十メートルほど進み、左折すると「歴史と緑 まほろばの里 高松 備中高松址」と書かれた物見櫓風の石碑があり、その上に槍を持った武士の像が出迎えてくれる。
 標識に従って、二車線の道路を四百メートル弱歩くとT字路にぶつかる。そこを右折すると、もうそこは備中高松城跡公園の駐車場だ。
 その前に、ちょっと寄り道。駐車場の反対側にある小径を右に曲がって突き当たると、高松山妙玄寺(こうしょうざんみょうげんじ)がある。このあたりが清水宗治公自刃の地といわれているようだ。
 妙玄寺は、一六〇〇年、高松知行所の領主・花房職之により、花房家の菩提寺として建立された寺で、宗治公の位牌もお祀りしている。
 境内に入ると、本堂に向かって右側に供養塔があった。
「ここから石井山を眺めると、秀吉の本陣跡が良く見えるなぁ」
「さっき登った、あの白い幟の翻っているところよね。秀吉軍三万、毛利軍五万の兵の息遣いまでかんじそう」
 手前の畑の中に伸びる幅一メートルほどの小道を南に移動すると、柵で囲われた場所が見えてきた。

ごうやぶ遺跡

 高松城主清水宗治が切腹する船を追って、宗治の草履取だった七郎二郎と宗治の兄・月清の馬の口取與十郎が「一足先に三途の川でお待ち申します」とお互いに刺し違えて殉死したところと伝わっている。
 木の袂には小さな祠が安置されていた。

 二人は、道を戻って備中高松城址公園に到着。広い駐車場には数台の車があった。
「わーっ! きれいに整備されているじゃない。子供の頃とは全然違う! 駐車場も広いし、すごい!!」
 さつきは、感嘆の声をあげている。
「僕も以前来た時より、整備されていると思う。あそこにある資料館がすごく立派になっているよ。ほんと、おどろきだ。こうして、きちんと歴史を振り返ることって大切だと思うな」
「ほんとよね。ウーさんやヒコさんにも見せてあげたかったね。あっ! ちょっと時代が違うか? フフフ」
 二人は、まず「備中高松城址資料館」に向かった。この史料館は、二〇二三年にリニューアルされたとのことで、見学は無料だ!
 きれいなガラス張りの資料館にはトイレも併設されている。資料館に入ると、大きなディスプレイが目に飛び込んでくる。とりあえず備中高松城の水攻めに関するビデオを鑑賞しよう。上映時間は十分程度の長さなので、気軽に見ることができる。
 奥に進むと、備中高松城を中心として両軍の各陣配置のジオラマやさまざまな資料が展示されていた。
「あっ! 御城印というのがあるんやねえ。大ちゃん知ってた?」
「最近は、日本百名城のスタンプだけではなく、お寺や神社の御朱印のように、御城印ができているんだ」
「大ちゃんは集めないの?」
「僕は、コレクションの趣味は、ないんだなぁ。調べたり、見学したりするのは大好きなんだけど……」
「私、神社やお寺を参拝したら、御朱印をいただいているのよ。記念になるし……」
 さつきは、御城印や御城印帳の売り場を、ちらちら見ながら、笑顔で大輔を見ている。どうも、欲しいのだが迷っている様子。
「僕は、御朱印や御城印は、素晴らしいアイデアだと思うよ。おやじから聞いたんだけど、神主の友人がいて、とても経営に苦労しているらしいんだ。
 お賽銭や祈祷くらいでは、建物や文化財の維持は、とてもできないんだって。古い建物をそのままの状態で修理、保全するためには、専門の宮大工や昔と同じ材料を使わないといけないらしい。何年かに一度行う改修費用を、積み立てるっていっていた。
 それに神主さんも生活して食べて行かないといけないしね。それらを少しでも応援する意味で、御朱印は大賛成なんだよ。お城などの史跡も同じだと思う。さっちゃんも御朱印あつめてるんだったら御城印もどう?」
 さつきの瞳が一気に輝いた。
「そうなんだ! 日本の文化や歴史を守る助けになってるんだね。私も応援するーっ!」
 さつきは、早速、御城印を購入したようだ。
「さっきお参りした、花房家の菩提寺妙玄寺の御朱印は、いただかなくていいの?」
「えーっ! 大ちゃん、それを先に言ってよ!」
 二人は、いそいそと妙玄寺まで戻って、御朱印をいただいた。
 ちなみに、この資料館には、続日本百名城のスタンプも設置されている。

 資料館を出ると右には広い城跡公園が広がっていた。途中には東屋やベンチがあり、休憩することもできそうだ。 
「あの白い円形のモニュメントは何?」
 駐車場と資料館の間には、円形の白いコンクリート製のモニュメントがある。内側には、備中高松城の配置と、その周囲に展開していた秀吉軍と毛利軍の陣の方角が彫られている。
「これを見ながら、備中高松城について説明するとするか! ちょっと辛抱してね」

備中高松城跡

「備中高松城の敷地は、北西から南東に向って細長く延びた形状をしているんだ。
 北西側の少し小高い所に本丸、中央部に二の丸、南東側に三の丸がある。
 その周囲と北東側には、堀と低湿地を挟んで屋敷があったらしいよ。
 現在、本丸と二の丸は高松城址公園、三の丸や家中屋敷の辺りは、宅地や田畑となっているんだ」
「私たちの学校がある、倉敷市松島にも城があったらしいけど。医大や両児神社がある山かな? 秀吉軍と闘ったんやろか?」
「いや、松島城は、備中高松城から最も遠い所にあったから、秀吉軍に攻撃されることはなかったみたいだよ。それと、川崎医療短期大学があったあたりが松島城跡とされているみたいだね。
 川崎医療短期大学のあった所と川崎医科大学の敷地や両児神社がある山を含めて松島と呼ばれていたみたいだけど、松島城主要部があったのは、川崎医療短期大学があった、別名射越山と呼ばれていた丘の上のようだよ。
 昭和四十三年に川崎医療短期大学が建設された時に、城の遺構は完全に失われたみたいなんだ。残念ながら……」
「あらら、私の学校のせいだったのね。申し訳ないことをしました」
「医大の南にある両児(ふたご)神社も、歴史のある神社なんだよ。約千八百年前、神功皇后が三韓征伐の帰り、戦勝と皇子の安泰を祈願されたんだ。二子の宮、当時は高鳥居山(今の場所から数キロ北)にあった。約千二百年前称徳天皇の時代に今のところに移転したらしいよ」
「歴史のある神社だったんやね。知らないことが多いね」
 大輔とさつきは、駐車場や広がる公園全体を眺めて、どこから廻るか思案している。
「大ちゃん少し早いけどランチにしない?」
「そうやね、ここは公園でベンチがたくさんあるからちょうどいいよね。それでは、お弁当を頂くとするか」
 ちょうど近くにあった東屋で、昼食をとることになった。さつきはザックの中から、水色のエコバッグを取り出した。さらにその中からトトロの絵が描かれた大小の弁当箱を取り出し、大きい方を大輔に渡した。
「これはこれは、かわいい弁当箱やね。そうかさっちゃんは、ジブリファンだったよな」
 蓋を開けると、卵焼き、赤いタコの形のウインナー、からあげ、かまぼこ、プチトマト、ブロッコリー、そしてのりを巻いたおにぎりが並んでいた。
「すごーい! 美味しそうやねー! 早速、いただきまーす」
 二人は、ベンチに並んで、ランチタイムとなった。爽やかな風を感じ、のどかな田園風景を眺めながらの昼食は、どんな高級レストランでの食事にも負けないと二人は感じた。こんな時間をこれからも、一緒に過ごせる幸せをかみしめていた。
 さつきが、大輔の方を見ながら言った。
「そういえば、先月開催した院内のTQM大会で、またリハビリテーション部が最優秀賞をもらってたね。あれ、大ちゃんのチームだったんやろ?」
「そうだよ。でも中心になって、まとめたり発表したのは青山さんだけどね」
「リハビリテーション部って、ああいった大会で、よく賞をもらってるよね。すごいなって、病棟の看護長と話していたのよ」
「うちのセクハラ技師長は、統計学に詳しくてね、皆と一緒にデータをまとめるんだよ。ああ見えて、誰も使わないような統計技法を知っているからね」
「へぇー! 山内技師長さんってすごいんやね。セクハラ技師長なんて言っていたら失礼よ」
「そうそう、この前、院内にセクハラ委員会を設置することになって、山内技師長が『私が、このリハビリ部のセクハラ対策委員になりましたので、困ったことがあれば、遠慮なく相談にきてください』って、朝礼で言ったんだよ。
 そしたら、OT(作業療法士)の女性職員が一斉に吹き出して、笑い出したんだ。それにつられて皆、大笑いになってしまって、大変だった。それを見て技師長も笑い出して、面白い朝礼になったよ」
「技師長さんは、よく気を悪くしなかったものだわ、それは……」
「朝礼の後、OTの森さんが、技師長に笑いながら話していたんだ」
「技師長! 技師長が委員なんて、すごいユルユルの委員会なんですね。ウフフフ」
 技師長は、
「皆にそういわれると思っていたよ。ハハハハ!」 と、高笑いをして部屋に戻っていった。「うちの部署って面白いやろ?」
「なんか、アットホームでいいね。ギスギスしてなくって、羨ましいな。セクハラと言えば、この前、朝、テレビを見ていたら、セクハラの特集をしていたのよ。何気なく部屋の掃除をしながら聞いていたんだけど、いろいろな事例を挙げていたの。
 その中で看護師の人が投稿していたのを聞いてびっくりしちゃった」
 さつきは、その時のテレビの内容を話し出した。
 東京の看護師さんからの声として、
「私は総合病院に勤務しているのですが、病室で患者さんから毎日セクハラを受けていて、つらいので、もう仕事を辞めようかと思っています。病室に処置に行くと、患者さんが話しかけてきます。
「もう結婚されているのですか?」
「お子さんはいらっしゃるのですか?」
 などと検温や清拭の合間に尋ねてくるんです。もう嫌で嫌でたまりません。
 アナウンサーは、
「病院でも、このように患者さんからのセクハラがあるようです」
 と言っていた。
 さつきは、少し困った顔で続けた。
「でも、これって患者さんが、看護師さんと人間関係を一所懸命作ろうとして、話のきっかけにしているだけなんだよね。患者さんは、病気や怪我を治療するために入院していて、痛い検査や苦しい治療を続けている。ちょっとほっとしたいんだよね。
 私なんか時間がない時でも、なるべく話しかけて、すこしでも患者さんの気持ちが和らぐことができればと思っているのよ。逆にこちらから、今のことを聞いているくらいだわ。それをセクハラなんて、受け取るほうがおかしいと思うの。
 もし本当にそう思って、毎日がつらいんだったら、その人は看護師という仕事に向いていないんだと思うのよね。もっと、人と接しない仕事を選んだほうがいいと思う。
 それに、そんなことをセクハラ事案として取り上げるテレビ局のスタッフも、おかしいんじゃないかな?」
「へぇー! そんな番組があったんだね。おやじも時々、テレビを見ながらぼやいているよ。職場にセクハラ予防のマニュアルが回ってきたので、読んだんだけど。言ってはいけないことがたくさん書かれていたらしい。『じゃあ、何を話したらいいんかいな? 話すことがないよ』
 僕もそう思うね。同級生と話した時も、その友人は『社内の宴会では、ほとんどお酒を飲まないようにしている。飲むと気が緩んで、言ってはいけないことを話したり、聞いたりするかもしれないから……』と言っていたよ。
 宴会って皆で胸襟を開いて、楽しく話をすることに意味があるんのにね。なんか本当に味気ない世の中になったなと思うよ」 
「これって、ほとんどマスコミが先導しているんじゃないかな? 日本のマスコミって、どうしてこんなに過敏症なんだろうね。もっと寛容な世の中に誘導してくれないかな?」
「さっちゃん、僕は寛容だからね」
 大輔は、にやっと笑いながら言った。
「大ちゃんのは、寛容ではなくって、ノーテンキと言うのよ。うふふふ」
「ひどいなー! 僕も考えてるんだよー!」
「はい! はい! 失礼しました。ふふふふ はい、お茶!」
 いつの間にか、二人の足元に、二羽の鳩が近づいて、地面の餌を探している。大輔が、弁当箱の隅についていたご飯粒を一つ足元に落とした。一羽の鳩が、すかさず来て食べた。
 大輔は、もうひとつぶ、他の鳩の方に落としてやった。すると、また先ほど食べた鳩が、素早く近づいて食べた。
 大輔は、今度は少し遠い所に投げてやった。もう一羽の鳩が食べやすい位置に投げた。すると、今度も先ほどの鳩が急いで近づき食べてしまった。しかも今度は、もう一羽の鳩が、近づけないように牽制しておいてから食べた。
 大輔とさつきは、顔を見合わせておどろいている。
「二羽で分かち合うという考えは、できないのかな? 鳩は、平和のシンボルのように言われているけど、やはり生存欲が強い、動物なんだね」
「人間も同じかもしれない。ちゃんと衣食住が満たされて、初めて人間らしい考えや行動ができるのだろうな。歴史を勉強していると、つくづくそう感じることがあるよ」
 二人は共感し合って、うなずいている。
「さあ、ゴールの最上稲荷までがんばるか!」
「最上稲荷は、毎年、暮れにお参りしているけど、家から歩いて行くのは初めてよ。でも歩いてみると結構近いんやね」
「最上稲荷まで、吉備津駅からは、五キロちょっと、高松城跡公園からは二.五キロというところかな? ここからが結構あるんだよ」
 二人は、東屋から南の二の丸を巡り、本丸跡に歩を進めた。途中、木橋や木道が点在し、沼には、蓮などの植物が見られる。
 公園整備で周辺に水壕を造った時、自然発生的にハスが繁殖し、美しい花を咲かせる蓮池となった。掘り返したことにより、地層に埋もれていたハスの種から、芽生えたようだ。(宗治蓮と呼ばれている)
 本丸跡は広く、木のベンチやテーブルがところどころに配置されている。すぐ横の公園からは、元気な子供たちの声が聞こえている。
 本丸には、清水宗治の首塚がある。二人は、鎮魂の祈りを捧げてから公園を後にした。

 公園横の道に出ると「清鏡庵」の大きな看板が目に飛び込んできた。さつきの顔が、おどろきから笑顔に変わるのは一瞬だった。
「デザートにしよか?」
「ちょうどいいタイミングで、いいお店に遭遇したやろ」
「うん、うん、名ガイドやね」
 お店の左半分は、蔵風のデザインで「お抹茶処」とある。視線を右に移すと、なんとお店の右隅に、昔ながらのタバコ屋の姿が残っているではないか。(タバコの販売はしていない様子)
「これは、なかなか渋い雰囲気のお店やね」
 アルミサッシの引き戸を開けて中に入ると、正面に陳列棚、左に喫茶スペースがあった。

和菓子屋 清鏡庵(店名は宗治の戒名)

 水攻饅頭(みずぜめまんじゅう)と宗治饅頭(むねはるまんじゅう)が名物らしい。隣の駐車場に車を止めて、この饅頭を買いに来る人が結構多い。
 さつきは、美味しい和菓子をいただき満足な様子。
 デザートをいただいたところで、前の道に戻って、最上稲荷に向かう。北方向に数分歩くと、右の電柱の陰に「胴塚こちら」の標識が見えた。

清水宗治公胴塚

「一五八二年六月四日、自決した高松城主、清水宗治公の首なき胴体遺体は、船上のまゝ本丸に帰って来た。
 迎える家臣、身内の者共、押さえ切れぬ涙に感極まって、一同の嗚咽がおこった。やがて回向の声に包まれ、池の下丸、この地に手厚く葬られた。その墓穴に臨んだ公の介錯人国府市佑は、己が刀で己が首を切り、そのまゝ落ちこんで自刃し、亡き公の後を追った。
 昭和四十九年九月 高松城址保興会」

 住宅の間の小道を道に入ると胴塚があった。「首塚に一緒に葬ってあげたい気がするけど……」
 鎮魂の祈りを捧げて二人は後にした。 

 元の道に戻って、歩を進めると、すぐに十字路となるが、道なりに右折しよう。すると、右に水路がある車道に出る。水路の向こうには、歩道があるので、そこを歩いて最上稲荷に向かうことにしよう。
 最上稲荷まで歩く。約二.五キロ、三十分のウォーキングだ。水路が途切れると、道は大きく迂回する。道なりに進み、長野高松線の手前で左折して進むと最上稲荷の二の鳥居と大きな駐車場が見えてくる。
「この間が結構長かったね」
「お参りしたら帰らないといけないよ」
「がんばりまーす!」

「最上稲荷参道入口」の看板が、アーケードの入口のような場所に掲示されている。ここから本殿まで、坂と階段が続く。
「年末年始はすごい人なんだけど、普通の日はひっそりとした感じだね」
「僕のおふくろは、高校生の頃、この参道にあるお店でアルバイトをしていたと言っていたな。うどんに入れるかまぼこを切ったり、食器を洗ったりしていたんだけど、すごい人で、超忙しかったと話していた。そうだ、ゆずせんべいを買って来てくれと、おやじに頼まれていたんだった」
「あっ! それなら私にまかしといて。私のお母さんが言っていたんだけど、ゆずせんべいはお店によって味が微妙に違うらしいよ。ゆずの香りや、せんべいの大きさ、硬さが異なるとのことで、人それぞれに好きなお店があるみたいよ。母のおすすめのお店で買ったら、大ちゃんのお母さんも喜ぶんじゃないかな。好みは似ているみたいだから……」
「それじゃあ、よろしく!」
 二人は、両側に並ぶお店を眺めながら参道を上って行った。この参道が結構長い。本殿の近くにも駐車場ができたせいか、参道を歩いている人は以前より少なくなったようである。
 大きな駐車場から仁王門まで約六百メートルもの参道が続いている。参道の両側には土産物屋の並んでいて「吉兆」「だるま」「招き猫」や名物「ゆずせんべい」を陳列した店や旅館、飲食店が続いている。
 数段の階段と坂道の連続で結構疲れる。
 参道の上はアーケードのような屋根で覆われていて雨に濡れることはない。やや薄暗い参道をひたすら歩く。まだ続くのかなと思い出した頃、前方に明るい光が差してきた。
「あっ! ここよ!」
 さつきがつぶやいた。お店が参道を挟んで左右に分かれていて、左の食堂では、数人の人が美味しそうなうどんをすすっていた。道の右側は、お菓子やおみやげ物を販売している。
 さつきは、道のすぐ横に陳列している「ゆずせんべい」の前に立った。こちらのお店には誰もいない様子。
「すみませーん!」
 と声をかけると、先ほどのうどんのお店から女の人が出てきた。
「はーい、お待たせしました」
「ゆずせんべいを四つください」
「五百円と三百円のがありますが、どちらにしますか?」
「五百円のを四つお願いします。母に必ず〇〇屋さんで買ってきてと言われたんですよ。一番美味しいと言っていました」
「ありがとうございます」
「ゆずせんべいを作っているお店は、何件くらいあるのですか?」
「今は七件でしょうか。美味しいといって買いに来て下さるお客さんが多くて、ありがたいです。また、よろしくお願いします」
 ゆずせんべいと一緒にに、小さなお守りをいただいた。
「旦那さんと二人で、お店をきりもりしているんだね」
「門前町の中でも、このお店は明るく輝いて見えるよね。やっぱり若い人が、後を次いでくれるというのが、町の活気に繋がるのでしょうね。お目当てのゆずせんべいが買えてよかったね。あれ? もうそこが仁王門みたいよ」
 ゆずせんべいを買ったらすぐ参道は終わり、仁王門の下を通る。

最上稲荷(さいじょういなり)

 最上稲荷は、日蓮宗のお寺で、正式名称は、最上稲荷山妙教寺である。岡山市高松地区にあることから高松稲荷と称されることもある。
 ここは、日本三大稲荷として、有名だが、京都の「伏見稲荷」以外は確定していないようだ。
 日本全国に三万社の稲荷神社は、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全などの神様として多くの人に親しまれている。
一 伏見稲荷大社」(京都市伏見区)
二 豊川稲荷(妙厳寺)(愛知県豊川市)
三 最上稲荷(妙教寺)(岡山県岡山市)
四 祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)
五 笠間稲荷神社(茨城県笠間市)
 一の伏見稲荷は確定だが、あとの四社は未確定。他にも、多くの名乗りがある。

 仁王門を抜けて階段を上がると、大きな本殿が現れる。
「最上稲荷は、商売の神様として有名だよね。年末年始は、県下一の参拝者があるので、このあたりは毎年すごい混雑だよな」
「私たちは、この新しい本殿しか知らないけど、両親は、この奥にある古い本殿の方が、なじみが深いので、今だに、そちらの方にお参りに行っているみたいよ」
「そうそう、うちのおやじやおふくろも、そういっていたな。今の本殿は、鉄筋コンクリートだから、江戸時代に建築された茅葺の旧本殿の方が、御利益があるとか言っていたな」
「最上稲荷の旧本殿の横に、石段があって、ここを上っていくと龍王山山頂(二八七メートル)に通じていて、奥之院があるんだ。
 その他にも、根本大堂、大客殿、清正公堂、寒松庭や福寿庭などいろいろあるから、また今度ゆっくり巡ることにしよう。さっちゃんもの足もそろそろ疲れてきただろうしね」
 二人は、本殿で静かに手を合わせ、こうしてお参りで来たことに感謝した。
「ここはお参りの仕方が特別なのよね。普通、神社では「二礼二拍一礼」だけど、最上稲荷は、神仏習合の形態を持っているとは言え、法華経で勧請されたお稲荷さまをお祀りしているので、静かに合掌し、「南無妙法蓮華経」とお唱えするのが正式な作法なのよね」
「そうそう、迷う人が多いんだよね」

「さあ、ぼちぼち帰るとするか。以前、ひとりで奥の院に行って、そこから足守の方に下山したことがあるんだけど、結構遠かった。低山だから冬の方がいいかな? 蛇が出てもいいんだったら来月でもいいよ」
「いやーっ! やめてー! 冬! ふゆ! フユ! にしてー!」
「わかった! わかった! 来年の二月頃にしよう!」
 大輔は笑いをこらえるに必死だ。さつきはほっとした顔になった。
 二人は、参道をゆっくり降り始めた。
「そういえば、あのお店はね、おふくろが高校生の頃、年末年始にバイトをしていたお店じゃないかな? そこの、ゆずせんべいが大好きらしい。この前、友達に別のお店の柚子せんべいをもらったんだけど、いまいちだったみたい。僕もその時食べたんだよ」
「へぇーっ、味はどうだった?」
「うん、確かにいつも食べている方が美味しかった。いつものせんべいより、少し大きめなんだけど、硬くて柚子の香りは薄いと思った」
「やっぱりね。うちのおかあさんも大ちゃんのお母さんと一緒にバイトしていたと言っていたから、同じだとおもうよ」
 そんな、「ゆずせんべい」談義をしながら降りると、案外はやく駐車場についた。
 駐車場まで下りると、今度は、別の道に向かった。
「帰り道は、真っすぐに通っている道があるのでそれを使うよ。遊歩道みたいな道だから、安心して歩けるからね」
「えっ! そんないい道があったんやね」
 大輔は、二の鳥居をくぐると大きな道に出てすぐ右に分かれている道に足を進めた。
「これは、旧中国鉄道稲荷山線の廃線跡なんだ。中国鉄道稲荷山線って知ってる?」
「今まで全然聞いたことがなかった。ほんとにここを走っていたの?」
「うちの親も知らなかったくらいだからね。かなり前の話なんだなこれが……
 一九一一年(明治四十四年)から一九四四年(昭和十九年)まで、備中高松駅から最上稲荷門前の稲荷山駅へ至る二.四キロが稲荷山線として運行されていたんだ。そして驚くことに、一九二九年(昭和四年)には、最上稲荷と奥の院を結ぶケーブルカーが開業していたんだよ。戦後廃線になったんだけど、その後は遊歩道や自転車道として活用されているんだ。びっくりしただろう? 僕も調べていて驚いたよ」
「おじいちゃんの世代だったら知ってるだろうね。今度会ったとき聞いてみようっと」
 ほとんど真っすぐな道が続いている。途中には、サイクリストのための休憩所が設置されていた。
「ねえ、大ちゃん、ずっと真っすぐ、あまり変化のない道を歩くというのも結構大変やね。車は通らないから安心なんだけど、楽しさはいまいちかな?」
「ほんとやね。どうせだったら、昔の駅舎やレールなどが、残っていたらいいのにね。僕たちは、鐡道マニアじゃないからね」
 線路を超えて左折すると、備中高松駅が見えてきた。
「はい、お疲れさまでした」
「いい運動になったね。またお願いしまーす!」
 備中高松駅からは岡山行に乗り、一駅で備中吉備津駅に到着。
 本日の歩行距離は、約十五キロ。自転車を利用するとより短時間で巡ることができる。
 また、車を利用しても各場所に駐車場が整備されているので歩くのが苦手な方も、太閤岩以外は問題なく見学することができるので、自分に合ったスタイルで散策しよう。

散歩の情報

 大輔たちの住んでいる吉備津から、総社周辺までは、多くの遺跡や史跡が集中しており、それらを見学して回るための散策マップが数多く公開されている。吉備路と一言で言っても、かなり広いので、徒歩で散策する人だけではなく、サイクリング目的の観光客も多い。
 そのため、いくつもの安全なサイクリングロードが整備されている。この吉備路サイクリングルートは、全体的になだらかで、のどかな田園地帯を巡るため、走っていてとても気持ちがいい。
 また、吉備路に点在している史跡は、「桃太郎伝説の生まれたまち おかやま」というストーリーで日本遺産にも認定されていて、古代のロマンを楽しむことができる。
 そして、岡山市では、誰でも気軽に巡れるように「吉備路サイクリングマップというのを作成して、観光案内書や施設で配布している。これらは、岡山市のホームページからもpdfファイルをダウンロードできるので、多くの人に利用されている。
 大輔もiPadにデータとして保存しているが、生まれ育った土地なので、地図なしでも支障はない。

参考:吉備路サイクリングマップ
岡山市ホームページ
https://www.city.okayama.jp/kankou/0000006435.html
日本語版 (PDF形式、2.11MB)
https://www.city.okayama.jp/kankou/cmsfiles/contents/0000006/6435/2024_nihon.pdf

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