母と娘そして女と男
下記の文章にある書籍を友から受け取った手提げ袋に、おすすめしてくれたものの他に、もう一冊の文庫本が入っていた。
きっとまた一気に読んでしまう予感がして、少し間を置いて、手に取ったら案の定あっという間に読了した。
短編集の初めに「愛情と呼ばれる檻につながれている人へ」終わりに「その檻、意外と脆いかもしれないよ」との言葉。
母から娘への支配と束縛。とても鮮やかに切り取って見せていると思う。その支配から逃れて良いのだと、その束縛の外にも世界は存在するのだと、自立を促しているのはわかる。
ただ、物凄く偏っていると感じる。
その檻とやらから踏み出さないのは、本人の甘えだと感じるから。
そう親ガチャという言葉に甘えを感じるのと同じ感覚。
私を束縛と支配の檻に閉じ込めたまま、ひとりで逝ってしまった母の轍は踏まないと決めて、生き延びて子育てをしてきた。可能な限りの試行錯誤を繰り返して。
子育てを終えて、改めて自分育てを試みている。
踏み出したならば全ては自分自身の責任。それが生きる事だと思う。
そのよすがとして女と男の愛と呼ばれるものに縋れば、また違う種類の支配と束縛に巻き込まれてゆく。
愛という名のもとの執着と支配と束縛。それは愛では無い。お互いが自由ではないのなら、それは契約でしかない。
あなたがあなたのままでいる事を許し、私が私のままでいることを許す。
そこを目指してもがいている。
私を傷つけてくるものをいかに許すか?私を傷つけてくる世界をいかに許すか?その為には、与えられている命の喜びや輝きの方向へと目を向けるしかない。
そんなことが少しずつわかり始めては、またわからなくなったりしながら、日々を過ごしている。
そう。事はそう単純ではない。というところをザックリと切り落としての表現なのが不満なのかもしれない。
どんなに愛を求めても、愛してみないことには始まらない。傷だらけになりながら、確かめていくしかない。それが可能であることに対する感謝。必要なのは、この感謝だけなのかもしれない。
というわけで、そんなこんなを考える機会が与えられた事に感謝して、この文章を締め括りたい。