忙と閑の境界/人生を乗りこなすこと
口癖のように忙しいという人がいます。
かつて私もそうでしたし、実際に「暇」がなかったと振り返りますが、私より遥かに活動的で生産的な人もいます。しかしそういう人が「忙しい」かというと、そうとも限りません。
「忙しい」は主観です。
定義は「やるべきことに追われている」とか「何かを急いでやる必要がある」とか、とにかく忙しない状況を示すのが「忙しい」という言葉ですが、緻密なスケジュールで動いていても忙しいと思わない人もいます。
忙しい状況では、不足の事態に対応することが困難です。言い換えると、余裕がない。暇や余裕がない状況というのは、想像以上に過酷なものです。時間に追われるようになって、1分1秒を惜しむようになります。自分では「忙しい」と自覚していなくとも、余裕のない動き方をする日々を送っているとしたら、それは自分では気付けないほどに忙しい状況にいるのかもしれません。
では、暇はどうか。
これもまた、過ぎると毒です。
暇が過ぎると人は堕落し腐敗します。命の消費速度は加速して、焦り始めたときには手遅れです。退屈は人生の色を塗り潰し、後には何も残りません。
『忙中閑あり』という言葉もありますが、「忙」と「閑(暇)」は共存して初めて大きな価値を生むものであろうと私は考えます。
ほどほどがよいのでしょう。
暇だなーと感じたら、動けばいい。
忙しいと感じたら、やる事を減らせばいい。
簡単なことのように書きましたが、社会生活を送りながらそのような調節をすることは至難の業です。生活それ自体もさることながら、人間関係や仕事の問題も大いにあるでしょう。簡単にできることじゃあない。
しかし、方向性を調節することは可能です。
心が「忙しい」に傾いていたら、仕事をセーブしたり、新しいことを控えたり、先送りできる事柄は見送ってしまいましょう。予定をキャンセルしたっていい。不測の事態が起きるのが人生ですから、余裕があることは罪ではありません。
心が「暇」に傾いていたら、その逆をすればいい。物事には流れというものがありますから、意識ひとつで心の傾きが変わっていくことに、やがて貴方は気付くでしょう。
さて、貴方は今「忙しい」ですか。
それとも「暇」でしょうか。
0か1ではない、その間に広がるグレースケールの中で、自分の心がどのあたりにいるのか、想像してみるのも一興です。今年の私は暇に少し傾いたくらいのところにいて、それを実に心地良いと感じます。うっかりしているとすぐに忙しい方に傾いてしまいますから、自分の口から「忙しい」と声に出た瞬間、暇方向に舵を切るのです。
ハンドルを真っ直ぐ握ったままでは、曲がりくねる人生を乗りこなすことはできません。気楽に構えて前を向けば、気分も明るくなりましょう。
拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、この記事が貴方のブレーキに、或いは暇潰しになりますように。