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名もなき老医の追悼

 明治時代を生きたその医師に関する文献は殆ど現存しない。
 これは産褥熱さんじょくねつと戦った一人の医師の記録である。

 旧六医大を卒業した彼は外科医として働きながら、ドイツに研究留学した。これは当時としてはかなり珍しいことで、相当の競争があったという。最新の臨床医学を学び、神経病理学を研究した彼は、日本に戻ると研究や教育業務を経て、地方に自身の医院を開業した。

 産婦人科学を専門とした彼が直面したのは、産後の死亡率に大きく影響していた産褥熱と呼ばれる奇病だった。産後に発症する原因不明の高熱で、その死亡率は10%を超えたと云われている。この疾患は感染症によると推定されたが、その予防法や治療法は確立されていなかった。微生物学はまだ発展途上で、医学史に革命を起こす抗菌薬ペニシリンの発見よりも前の時代だった。

 彼は産褥熱の原因が病原性微生物による感染症であることを確信し、その予防と治療に心血を注いだ。心血を注いだといったが、文字通り彼の研究の成果は、自らの血液を用いた治療法の樹立だった。

 まず彼が行ったことは、産褥熱の患者の血液から病原微生物を培養し、それを自身に投与するという正気の沙汰とは思えない方法だった。現代医学の言葉を用いるなら、弱毒化していない生ワクチンの投与ということになる。投与後、彼は産褥熱とまったく同じような高熱と諸症状に苦しみ生死の境を彷徨うが、生来の強靭な肉体は病原微生物に打ち勝った。

 すると、彼の身体には免疫の記憶が残る
 彼は免疫記憶のある自身の血液を患者に投与した。当時の未発達な輸血学ではO型は万能供血者と考えられていて、幸運なことに彼の血液はO型だった。

 今では考えられないような野蛮で挑戦的な治療法だが、彼の診療録や患者の子孫の話によると、治療効果は絶大なものだったらしい。
 さらに彼は定期的に病原体を自身に接種することで、免疫記憶を維持しようとした。

 現代医学の視点からみると、免疫が輸血で伝わることは考えにくいが、抗体価の高い時期なら幾らかの抗体を送ることは可能と考える。大量に生成して輸血していた場合には、免疫グロブリン療法の先駆けだったかもしれない。
 産褥熱の本体は病原菌による菌血症と、それに続く敗血症であり、「集中治療のような厳密な全身管理の一環としての輸血だったのかもしれない」というのが私の師たる感染症科医の分析だ。
 とても丁寧に患者に向き合って治療していたのだろう、というコメントを頂いた。

 保険診療制度は健全な医療を破壊すると考え国に叛逆した彼の生活は、決して豊かなものではなかった。基督教を信仰していた彼は、堕胎を是としなかった。これは当時の流行に逆らう方針であって、そのこともまた彼の経済苦を招いたという。

 昼夜を問わず研究と治療に没頭した彼は、その晩年、脳梗塞に倒れた。自由の効かない身体を引き摺るようにして診療を続けたが、二度目の脳梗塞を境に医業を続けることを断念した。

 その頃には彼の長男は立派な外科医になっていた。海外留学を経て東京に戻ったばかりだったが、実父が急病と聞くとすぐ故郷に帰った。出世よりも家族を選んだ彼は、その土地を継いだ。
 実父の入院環境を嘆き(当時の病院施設は無味乾燥で入院食も不味かったという)、リハビリテーションを主軸に置いた理想の病院を構想し開院に至るが、それはまた別の話。

 脳梗塞の後遺症を患いながら自宅に退院した老医は、ある朝、最愛の妻が起きないことに気付いた。
 息子が到着したときには、枯れ枝のような四肢を懸命に動かしながら廊下を彷徨い、「困ったなぁ、困ったなぁ」と呟く父の姿があったという。

 伴侶を失った老医は、ほどなく後を追いかけるように、今世に別れを告げた。




 これは私の曾祖父の半生です。
 僅かな過去の記録と、祖父から聞いた話の要所を書き起こしました。
 心にしまっておくべき内容かもしれないと思いつつ、曽祖父の命日に際して少しでも形に残そうと書き始め、文章の体裁が整いましたので、投稿いたしました。個人情報には配慮しましたが、内容は全て実話です。

 十数代続く医者家系の末裔として、私も医学の道を極めていこうと思います。




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渡邊惺仁
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