「叱る」と「怒る」の境界
「叱る」と「怒る」という言葉があります。
似ているようで全く違う概念です。誰某に怒られたとか叱られたとか、無意識に使い分けていることに気付きます。どちらの概念も、言葉の受け手が発信者の好ましくないと考える(あるいは感じる)言動をとったときに、発信者の選択する行動です。
考えて選択される「叱る」は理性的で合理的で了解可能なことが多く、感じて選択される「怒る」は感情的で矛盾的で了解不能なこともあります。
優しく叱ることはあっても、
優しく怒ることはあり得ない。
怒っているのだから物腰がやわらかくても目が笑っていません。それは不気味ですから、その場に恐怖を齎します。せっかく感情を発露するなら偽らずにストレートに怒った方が自然でしょう。
この言葉のベクトルは、何処から相手に向かっているのでしょうか。
叱るのは相手のため。
怒るのは自分のため。
どちらが良いとか悪いとか、そういうことではありません。ただ言葉の背景にある構造を理解して、適切に使い分けたいと思うのです。
「おこってない?」と息子が訊ねます。
おこってないよ、と私は応えます。
私が怒ることは滅多にありません。危険なとき、人道に反する言動があったときには、よく考えた上で必要に応じて、叱ります。
「パパはこわくないんだ。」と息子は言います。
こわいひとがいるの?と訊ねると、しばらくフリーズしてから、初めてその答えが返ってきました。
「ママはこわい。」
一瞬言葉を失って、私も色々なことを思い出して、それからようやく「そうか、こわいんだね。」とだけ絞り出しました。しゃがんで目線を合わせてから、大丈夫だよ、と息子の手を握り返して抱きしめました。
それは二人で仕事を休んで散歩をした日の出来事。日が昇り影の背丈が低くなる頃のことでした。小さな身体を精一杯に動かして、彼は懸命に生きています。
大丈夫。
その言葉が現実味を帯びてきたのが秋の終わり。それから緩やかに時が流れて、子どもたちの表情も随分と穏やかになってきました。
誰が悪いわけでもないのです。
ただ少し、気付いて欲しいだけ。
小さな祈りを秘めながら、また夕飯を作ります。
美味しくなるように、幸せであるように。
拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、感情と理性が手を取り合って爽やかなピクニックになりますように。
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