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いつまでもあまやかにまわる
胸の中でいつまでもあまやかにまわりつづける観覧車、というイメージは、私が羽海野チカさんの漫画「ハチミツとクローバー」からもらったものである。
くるくる、ぐるぐると同じところを回転し続けるモチーフは、いつまでもそこにとどまっていたいという願望を、ふわりとやさしく包んで私たちに提示する。たとえば観覧車とか、メリーゴーランドとか、そういうのだ。
基本的にはいつも今がいちばん楽しくて、今がいちばんしあわせだと思えてしまう私でもやっぱり、この日々がずっと続けばいいのにと願ったことがあり、じゃあ一体それはいつなのと訊かれたらためらいなく答えられる。
ハチクロのみんなと同じ、大学生だったころだ。
私の大学時代はまさにちょうどコロナの時期で、最初の方は何もかも制限されてつまらなかった。家族も恋人も近くにいなくてさびしかったし、授業が対面じゃないから友達は全然できないし、本当にもの足りない日々だった。
そんなふうに最初の数年間はつまらなかったのだけれど、その分、いろいろなことが緩和された最後の1年間は信じられないほどに楽しく、おもしろかった。私はみんなに会うために受験期を越えたんだ、この1年間のためにはじめの3年間があったんだ、というくらいに、満ち足りた学生生活だった。
どれくらい楽しかったかというと、何度も何度もくりかえしてnoteで思い出話をしてしまうくらい。これはみなさん、ご存じだろうから、あまり言わないでおこうか。
私はこの1年間、働かずに他のことをさせてもらって過ごしたので、実を言うと卒業してからもまだ大学生活がぽやぽやと続いているような感覚でいる。
けれど私の大学の友人たちはもう社会に出て働いているから、たぶん日々に忙殺され、その中で大学時代の記憶がすこし遠くなり、しかし記憶が遠くなった分だけ、あの日々の思い出が光り輝いているのではないかと思う。
残念ながら、私はまだ大学生活を思い出すような段階に至っていない。今でもあの日々とみんながずっと胸の中の一部分を占めているからだ。
なので、まだキャンパスに行けばみんなに会えるような気がするし、私たちのつかっていた研究室もそのまま残っている気がする。私たちの先生はこの春で大学を去ることが決まったけど、先生だって、あそこを訪ねていけばいつでも私を迎えてくれるような気がする。
そこは心象の風景としてはあまりにも鮮やかに存在していて、だから時々みんながもうそこにいなくて、それぞれの日々を送っていることを思うと、ひどく奇妙な気持ちになる。
ただおそらく、私もこの春働き始めたら、学生生活の記憶というものが遠ざかっていき、いまの段階でみんなが感じているくらいの距離感が、大学生活というものに対して生まれるのだろうな、とも思う。それは想像にたやすい。
もちろんいつかは全部そうなっていく。今までだってそうだったのだ。いつかは何もかもが私の手からこぼれていくし、どんなに愛しい記憶も薄く淡く、やさしく、まろやかに褪せていくだろう。
そうなると、もう自分の意思では思い出したいことを思い出せなくなってしまう。既にいろいろなことを忘れてしまった。些細なことはほとんど思い出せない。おもしろかったこととか、楽しかったこととか、いっぱいあったはずなのに。
実際に起こった出来事の中から、私にとって重要だった、あるいは印象的だった出来事ばかりが脳内で反芻され、濃く色づけられていく。そうやって主観的な、私だけの記憶が勝手にできあがっていく。
時間が過去を美化するというのはそういうことなんだろう。それがかなしい。かなしい。かなしい。
私はいつだって残すために、たとえ忘れても思い出せるようにするために文章を書いてきた。だから、これからどんどんあのすばらしい日々の記憶が薄れていくことが、心底かなしいのだということをここに書いておく。
だんだん思い出せなくなることがさびしい。それも悪くないなと思える自分がかなしい。
だって思い出せなくなった分だけ、あの日々が記憶の中で磨かれて結晶化され、星みたいにきらきらと、宝石みたいにぴかぴかと輝くだろう。それが本当にうれしくて、叫び出したいほどさびしい。だからそれをここに残しておく。
いつかはそんなさびしい痛みも忘れ、ああ、そんなことあったなあ、あのころは楽しかったなあ、本当によかったよね、と笑う日がくる。
けれど私の胸の中で、記憶は観覧車みたいにぐるぐるとあまやかにまわりつづけるし、私は胸の中のその場所へ行けば、いつだって、みんなの悪戯めいた微笑みと再会することができる。