この夏いちばん怖かったこと
この夏、ある小さな街でヘイト騒動がありました。
あれから2カ月になります。
関係者のみなさまがたにあらせられましては、如何おすごしでしょうか。
心の傷はまだ癒えていないと思いますが、当初の熱は冷めたころではないかと推察いたします。
そろそろあの騒動について私見を記しておくのもよいかなと思いました。
経緯
あるお米屋さんが、公園で外来種の水草が増えて困ったというニュースを参照しながら、地元の地方議会で在日外国人住民投票権が否決されたことに関して、安堵のつぶやきをツイッターでおこなった。
するとすぐさま、このツイッターの内容をヘイトスピーチだとみなした人々が、抗議活動をお米屋さんの店先でおこなった。
するとすぐさま、ツイッターでお米屋さんの支持者らによる抗議活動反対の声が上がった。
米屋に警察が出動し、議員が訪れ、騒動となった。
たったひとつのつぶやきが騒動へと発展したのである。
事件の報道を読んで、私は恐怖した。
驚愕
私が最も驚愕したのは、抗議活動の狙いが、なんらかの政策や法案に対してではなく、特定の一個人に対するものだったことです。
抗議活動に参加した人々は、極めて純粋な正義の怒りに身を任せ、直接行動に訴えました。
しかしながら抗議活動参加者の目的は、お米屋さんが御自分の主張を変えられて、「外国人だって僕らと同じ人間だよね。みんなで一緒に仲良くこの街をよりよいものにしていこう」とおっしゃってくださることではなかったか。
もしもそうだとしたら、在日外国人に優しくするのはもちろん大事だけど、同じようにお米屋さんにも、お米屋さんの御家族や隣人友人のみなさまにも優しくしなくちゃいけないと私は思う。だって「みんなで一緒に仲良く」が目的なのだから。
お米屋さんの政治的思想信条に反対することと、一人の人間をバッシングすることは別問題でしょうに。
恐怖
この事件では、立場は違えども、幾人もの人々がさまざまな理由で恐怖を感じたであろうと思います。外来種と同一視された在日外国人の方々も、ヘイトだと吊るしあげられたお米屋さんも、そして街でふつうに暮らすひとたちも、恐怖したことでしょう。
ところで人々に恐怖心を抱かせることで人々の言動に影響を与えて、自分の政治的目的を達成することは、健全な法治国家においては、適切な政治活動とは言えません。それはときに「テロ」と呼ばれます。
恐怖ではなく別な方法で、他人様に方向転換してもらうことは、不可能ではないはずです。
例えば女性に振り向いてもらいたいとき、幼稚な男はナイフで脅すけど、ジェントルマンは花とチョコレートを贈るでしょ。
危機
この事件に、私は現代社会における三つの危機を見ました。
一つ目が、代表制民主主義の危機です。みんなが直接政治に参加して発言すれば混乱する、だから選ばれた代表が少人数で議論をするー。いまこの原理がおろそかにされています。
二つ目が、政治の危機です。政治とは、ある問題について時間をかけて議論をし、妥協することです。しかし現代社会ではそれが忌避されています。
三つ目が、識別能力の危機です。現代人は、水草と人間の違いを、または政治的思想信条と人間の違いを、区別できない。そしてすべてのものを「敵か味方か」の二分法に単純化して理解しようとする。単純なものでないと理解できないのです。
残念ながら、これらの危機は現代社会を破壊するだけであって、あらたな社会を創造する革命の契機にはなりえません。だって幸福な未来のイメージが欠如していますから。
たしかにこれらの危機には、現代人の、理不尽な社会に対する怒り、窮屈で自分らしく生きられないことへのいらだちが認められます。しかしあらたな社会をつくるためには、もっと知恵と工夫と人間性への深い洞察が必要ではないでしょうか。
アクとの付き合い方
偏見や差別といった悪の完全な絶滅を狙った行為が、民主主義を劣化させる可能性だってあるわけです。
だから大事なのは偏見や差別を完全に撲滅することではなく、大きな問題にならない程度に抑え込むことではないかしらん。
そもそも完全に偏見や差別を持たない人間なんて存在するのでしょうかね。たとえそんなひとがいたとしても、そのひとは人間臭さを感じさせない人間ではないかしら。
偏見は、人が他人に関心を持ったときに発生します。
もしも世界から偏見を完全に消去したければ、誰も他人に関心を持たなければよい。
でもそのときは「憧れ」「理想」「夢」という名の偏見だって消滅するのです。
偏見によってアバタがエクボに見えることは、そんなに悪いことだとは思えないのだけれども。
水清ければ魚棲まず。
煮込み物だって、アクを完全に取り除いたらコクも栄養価も損なわれて、まずくなりますよね。
そろそろお鍋の美味しい季節。
そんなことを考えながらアクをすくってみてはいかが。