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受験シーズンなので学歴を考える
以前、あるnoterから、西願は自分の学歴を自己紹介に掲載していてケシカランと言われた。
愚かな批判だ。
しかし愚蒙を見かけたら啓蒙する。それがインテリの務めだ。
亀をいじめる子供を見て放っておけない性分でね。
学歴の否定は、歴史の否定である
ある種のひとびとは言った。
「学歴なんて、関係ない。」
そんな彼らの言葉がカタチとなったのが、個人情報保護法だ。
かくして大学の教室で学生の出身地や出身校を問うことは禁じられた。(入学審査には学生の履歴書を求めるのだから、なんとも奇妙なダブルスタンダードだ。)
しかしながら学生の履歴を問わないとは、学生を名前ではなく番号で呼ぶことである。
そもそも履歴や出自を考慮に入れないとは、歴史を考慮に入れないことである。
しかし人間は歴史の産物だ。
もちろん大事なのは、履歴書に記載された情報をどのように読みとるのかである。
それは教科書の年表の読解方法が大事なのと同様だ。
例えば革命ばかり起きている国家を、「この国民は自分で自分を律することができない」と低く評価するか、はたまた「この国民はとても民主的な国民だ」と高く評価するか。
もちろん教科書だけで歴史のすべてがわからないように、履歴書だけでその人物のすべてが理解できるわけでもない。履歴書に書かれていないかもしれないけれども大切なことはやまほど在る。
しかしそれでも履歴書が存在するのは、そのおかげで大雑把ながらも「ある人物のイメージ」が捉えられるからだ。
イメージを常に修正可能なものとして扱うかぎり、イメージを持つのは人間関係において大事である。如何なるイメージもない、〈のっぺらぼう〉の人間とできる協同作業は闇バイトぐらいである。
繰り返される歴史への批判と、それでも必要とされる歴史
例えば家系図は、近世においては履歴書の役割を果たした。
それは武士の就職のさいに一定の役割を果たした。
どのような家の出身なのか、先祖は何をしたのか、が問われた。
文明開化となって、家系図批判が為された。
先祖が何をしたかではなくて、当該人物の実力が問われるべきだと批判されたのだ。
しかし現在、二世芸能人も、二世国会議員も、二世大学教授も健在だ。
おそらく問題なのは、履歴の過度な重視が保守主義に通じることである。実際、保守主義者こそが過去を重視する。
他方、革新派は集団から解放された個人が新しい時代をきりひらくことを重視する。
しかしその人物が保守的性格を持っているのか、それとも進歩的性格を持っているのかを判断するためにも、また履歴書が大事になる。
学閥の身内びいき
それゆえ大事なのは学歴が何のために用いられているかを調べることである。
そのとき学歴が学閥の「身内びいき」のために用いられていることがわかる。
行き過ぎた身内びいきは、排除の論理を招く。
競争原理が傷つき、社会的流動性が消える。
排除された人々は疎外感を抱く。憎悪や怨恨を抱く。
かくして社会内部の信頼関係は損なわれ、その社会の潜在能力は衰退する。
そしてそれがこんにちの日本の大学における人文社会科学の停滞の一因だ。
しかし排除された人々のうち、じゅうぶんな思考力がない人々は、身内びいきを批判するのではなく、学歴そのものに対して劣等感を抱く。
そして劣等感に縛られて、「どうせ自分はバカなんだ」と卑屈に生きる。
そして「るいはともをよぶ」。
彼らは低学歴集団を構成して、こんどは自分の番だとばかり高学歴者を批判して、隠微な復讐の悦びにふける。その復讐に生産性はない。かくして社会は分断して、友愛が消失する。
処方箋
どうすればよいのだろう。
自分の自由を基軸に考えてみればよいのでは。
自分の偏見を鎖にして、自分で自分を縛る人々て、何なのだろう。
「学歴弱者にだって、幸福になる権利はある!」とか言っちゃって。
疲れそう。
そもそもあなたと他人とは、人間として平等だ。
法(人権宣言)の前に平等だ。
しかし社会の中での役割分担は違う。
役割はいろいろある。
学歴や職歴は、あなたに担える役割はなにかを判断するために存在する。
個人には歴史=履歴がある。既に送られた人生がある。僕はそれを尊重する。
個人が自分の過去に、好き、嫌い、誇り、後悔、如何なる思いを抱いているとしても、そのうえに現在がある。だから僕があるひとの過去=履歴を尊重するとは、そのひとの現在を尊重することにつながる。
自分の過去、自分の出自、自分の名前すら提示できない惨めな弱者には、憐れみを感じる。
しかしもしも弱者が弱者の生き方を他人に強要するならば、僕はそのような「弱者の暴力」を攻撃する。
だってそのような弱者は気持ち悪いから。
そもそも弱者とは自らを無力だと自己申告するひとのことだ。
そんな連中、あてにはできない。
だっていま欲しいのは、たのもしい戦友だから。