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理由有る悪が求められる

きっかけ

先日の編集専科の授業のオープニングだった。突如と始まった佐渡島さんの雑談。

「今流行ってるコンテンツってなんだと思う?」この呼びかけに会場からは『ジョーカー』と声が上がった。「他には?」との問いには『鬼滅の刃』と上がった。

それを聞いて「じゃあ、この二つの共通点ってなんだろう?なんで流行ってるんだろう?こういうこと考えませんか?」との投げかけがあった。

会場は静まりかえった。ぼくはというと、『ジョーカー』はみていたけれど、『鬼滅の刃』に関しては、読んでもないし、見てもいなかったから答えようにも何も言えなかった。

それがちょっと悔しかったので、昨日に『鬼滅の刃』を全部買って既刊を全て読んでみた。さすがONE PIECEを11年ぶりに一位から陥落させた大ヒットコンテンツ面白くってずっと読めた。

じゃあここで、どっちも読んだ観たところだし二つの共通点を考えてみようじゃないかというのが今日のnoteだ。完全にぼく個人の持論にしか過ぎないのであしからず。ネタバレをする気はないのでどうぞ安心して読んでみてください。

二つはどんな物語か

今、流行のこの二つのコンテンツの共通項はなんだろうと考えたときに、端的に一言で言うなら

敵役の心情が丁寧に描かれているところ

だとぼくは思った。

言わずもがなジョーカーは、バットマンの敵役(ヴィラン)だ。映画『ジョーカー』はこの敵役を主役にして、どうして人殺しの狂ったやつになってしまったかがすごく丁寧に描かれる。

それには多くの人が共感したり、自分もこうなってしまうんじゃないだろうかと考えたり、ここまで苦しかったら人は狂ってしまうよねとか様々な感想を抱きながら、多くの人がジョーカーの人生に同情しているように思える。

もちろん、違う感想を持つ人がいるのを否定する気はないです。そういう傾向があるんじゃない?くらいな話です。


では、『鬼滅の刃』はというと、

鬼に家族を殺された主人公が鬼を殺すためにそれはもう血の滲むような修行をして、鬼殺しの特殊部隊に入隊し、鬼を全滅させるために戦うと言う話だ。

そして、大事な要素として、鬼は元人間であると言うことがある。(これはネタバレじゃなくてあらすじの範囲なので安心してください。)

『鬼滅の刃』の特徴的なところは、鬼は殺しておしまいにならないところだ。ほぼ必ずと言っていいほどに倒した鬼が死際に回想シーンを繰り広げる。そしてその鬼がどうして鬼になってしまて、人々を食らい殺すようになったかが描かれる。

主人公にはその回想シーンは見えないのだけれど、主人公は第六感からなんとなくその想いを察して、先ほどまでは憎しみで持って相対していて鬼に共感し、泣いたりもする。なかなかなここまで鬼(敵)に情けをかける主人公はいなかったんじゃなかったと思う。

✳︎✳︎✳︎

簡単にまとめると、どちらも敵役の心情が描かれることによって敵の行動の事情が理解できて、思わず同情してしまうような、そんな物語なのだ。

じゃあ、なんでそれがウケるの?

なんでだろうと考えると、

今の世の中、実は罪悪感を感じやすい状態にあって、みんなが罪悪感を抱えているんじゃないかと仮説を立ててみた。

SNSが流通しきった今、世の中の悪意のようなものとぼくらは日々対面し続けることを強いられているような気がする。

もちろん、有益な情報の入手や顔をみたことのない人との繋がり、かわいい猫の動画との出会いを実現してくれるSNSだけど、

覗いていると必ずと言っていいほどに、怒りの言葉や目を背けたくなるような汚い言葉、憎しみの言葉、嘲笑の言葉を目にすることになる。

それに対してたくさんの人が“反応”する。だからツイートやインスタは炎上する。

ただ、興味本位で便乗してリツイートボタンやいいねのボタンをおしてしまっただけかもしれないし、ちょっとイライラしてたからそのイライラを増長させたものに対しての八つ当たりしたいだけだったかもしれない。

でも、そんな軽い行為が重大な加害者に自分をしてしまう。心に確かな罪悪感を植え付けてしまう。

いやいや、自分はそんなことしないよと思うかもしれないけれど、その行為を現に、実際に、多くの人が行ってしまっているのが今の世の中じゃないだろうか。

また実際には行為に移さなくても、思うことはあるかもしれないし、フォロワーが誰々より少ないだとか多いだとかの小さい妬みの感情が生まれてしまっているのかもしれない。思ってしまっただけでも、自分はこんなことを思ってしまう人間なのかと罪悪感を感じてしまわないだろうか。

そしてその罪悪感は、本人が気づかなくてもたしかな“しこり”をその人の中に残しているのだと思う。

そう、だから、悪はただ正義のヒーローに倒されるだけの存在ではなくなったのだと思う。それは、みんなの中に小さくもたしかな“しこり”があるから。

敵役が倒されることを望みながらも、どこかで敵役には悪をしてしまった理由が欲しいのだと思う。罪悪感を救って欲しいから。しこりの存在を認めたくないのだけれど、どこかで自分にしこりが存在してしまうことを認めて欲しいんじゃないだろうか。

そんな優しい物語をみんな求めているんじゃないだろうか。炭治郎が悪を認めることは自分を認めてくれることにきっとつながっているんだと思う。


何をいまさらそんな物語、デビルマンのころからあったさと思うかもしれないけれど、じゃあ、デビルマンが最近リメイクされて話題になったのはどうしてかって考えるとそんなこともあるんじゃないかなぁと思うのです。

とまぁ賛否両論あるかと思いますが、ぼくはこんなことを思いました!




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