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noteの投稿が少ないことと、カント『純粋理性批判 1』

またもや久しぶりになってしまった。
久々に文章、それも特にnoteに投稿するような長めの文章を書いてみると、スムーズに言葉が出てこない。出てきたとしても、どこか見当はずれなものばかりで、「言いたいことはこんなことじゃないよー!」と自分で突っ込みたくなる。

だが、案外そういう経験をしている人はnoteでは少ないのかもしれない。というのも僕のフォロワーさん界隈を見渡してみると、皆さん筆まめな方ばかりだ。語弊がある表現だとは思うが、勤勉でまじめな印象を受ける。
いや、たぶんそういう方々は、文章表現が好きなのだろう。少しはあやかりたいものである。

と、ここまでPCで書いてきて、もしかしたら自分が今まで筆不精だったのは、これまでのnoteすべてをスマホでポチポチ書いてきたからではないかと思い至った。
若い方なら案外、PCよりもスマホのほうが断然高速で入力できるのだろうと思うが、僕ももはやガチガチの老害世代である。PCのほうが、はるかにやりやすい。

そうだ、これからはPCでnoteを書くことを日課にしよう!
日課にできなくても、五日に一つぐらいは投稿したいな。

純粋理性批判を本気出して読み始めた

遅読家をもって任じている僕であるが、noteへの感想文投稿とそれによるアウトプット、そして皆さんのフィードバックにより、1年ほど文学作品と呼べそうなものを読み続けることができた。

そしてこの度ついに、これまで適当に読んでいたカントの『純粋理性批判』を本気で読んでみようという気になった。

とはいえ哲学書をまともに読んだ経験などほとんどない僕のことだから、いきなり、いかにも難解そうな岩波文庫版などを読むことは難しいだろう。そこで、ライト層にも読みやすいと評判のこの光文社古典新訳文庫版を手に取った。

この中山元氏による翻訳では難解な表現、たとえば『悟性』を『知性』と置き換えるなどして、現代人にも受け入れやすくなるような工夫が随所に施されている。
詳細な注釈に加えて、巻末には本文と同じくらい長い解説があったり、光文社のページに行けば全巻の詳細な索引などが用意されていて、至れり尽くせりだ。
その中には訳者の
「純粋理性批判を十分に理解し、その世界観を堪能してほしい」という意思と、カントとこの書物に対する深遠な親しみが伝わってくるようである。

実のところ、僕はこの本を読んでみたいと思ってから長かった。
もう相当な間、僕の中では、
「宇宙の根源を知りたいなら哲学。そして哲学ならカントとハイデガーとニーチェ」という謎の理念が渦巻いていたのである。

いつか書いたかもしれないが、僕には幼少のころからこの宇宙とこの時空の成り立ちを知りたいという欲求があった。
それゆえ理系に進み、自然科学を学んだのだが、思いのほか物理と数学ができないという残念な欠陥に行き当たった。そこで、代わりにこの世界の成り立ちを学べる学問を模索していたところ、哲学に行き着いたのだった。

さて、ちょっとアウトプットのつもりで、一巻で得た見解を書いてみよう。感想を書くのは難易度が高いので、またの機会にしたい。

 ※ 以下はこの七巻ある大著のうちの一巻から得た、僕自身の見解である。それゆえひどく間違っている可能性が高いことをご容赦願いたい。

『純粋理性批判』には、人間の理性を俯瞰して見つめて、その限界を見定め、科学と呼べる営みの可否を判定しようとする、という意味が込められている。

純粋な理性、とは、人間が経験によらずに、つまりある対象を、経験していないにもかかわらず納得することができる能力を指す。一巻では神、不死、自由がその対象として挙げられている。そしてこれらの対象を理解しようとする学問を形而上学と呼ぶ。

人は感性と知性(=悟性)の二つをもって物事を理解する。つまり人は物事を五感で受け取ったとき、感性によって像=表象(=イメージ、としてもいいかもしれない)を作り出し、その像から今度は知性によって物事の認識を作り出す。この過程を経験と呼ぶ。

経験に先立つ感性を超越論的な感性と呼ぶが、その感性の形式には時間と空間の二つがある。時間も空間も、われわれがありとあらゆる経験から超越して持っている直観(経験によらず、直ちに理解できるもの)である。ただし時間は内的にしか認識できないし、空間は外的にしか認識できない。

そして物自体は決して認識できない。人間が認識できるのはただ、物自体から感性によって像を作り、知性によってその像を理解した、その経験のみである。

純粋理性批判1の僕個人の解釈
著者や訳者の解釈とは必ずしも一致しない
ご容赦いただきたい

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