村上春樹と認識の幅と、そして靴ずれの改善
村上春樹作品に対する認識の変化
実は最近、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という長編小説を読んでいる。
村上春樹といえばかなり以前に言及したように、"自分にはどこか受け入れにくい作家" であるはずだった。なぜそれを読み始めたのだと怪訝に思う方もいるかもしれない。
そのような事情があるにもかかわらず、今回この作品を手にとってみたのは、やはり彼の小説を読んでいると、全体的に不思議と心が落ち着く、いわばマインドフルな気分になれるという感覚があったからだ。
これは前にも言及していたと思う。
そしてこの感覚は僕にとって、たとえ彼が総合的に見て受け入れにくくても、大きな魅力であった。だから今回は自分の感覚にとことん正直になろうと思ったのである。
ところが最近この作品を読み始めて、彼のその観念的な世界観を『受け容れる』ことができるようになりつつある自分を発見したのだった!
自分の認識範囲を広げるいくつかの試み
実のところ僕は読書とマインドフルネス(瞑想)を日課にしてから、丸一年たっている。
マインドフルネスと言うと何か引っかかる人も多いかもしれないが、別に何も怪しいものではない。
5分〜10分間ほどにタイマーをセットし、椅子に腰掛けて軽く目を閉じる。そして目を閉じて、呼吸に意識を向けるように努める。意識が呼吸から逸れて、何か考えはじめたら静かに呼吸に意識を戻す。これをタイマーが鳴るまで繰り返す。
いわば自分の観念や認識を統合するトレーニングだ。別に悟りを開きたいなどと思っているわけではない。
著名人ではAppleのスティーブ・ジョブズがやっていたし、Googleでも社内研修として行われていることは有名な話だ。
悟りを開きたいわけでもないのに、なぜそんなことをするのか。それは上でもサラッと述べたように、これが自分の心の統一性を高め、思考を深める手助けになるからである。
そしてそのような成果が期待できることは、ハーバード大学などの様々な研究機関が実証している。
もちろん無理に人に薦めようという気はないが、それでもこの作業は、少なくとも僕には有益であったし、これからもそうであるだろうと思えるのだ。
村上春樹作品という靴を履きこなすには
ともあれ、何が言いたいかというと、それは
『村上春樹とその作品に対する靴ずれから、僕自身が解放されつつあるのではないか』という仮説だ。これだけでは説明不足なので、少し詳細に述べてみよう。
つまり彼の作品群は、かつての僕の観念や認識、あるいはライフスタイルにとっては少々器が大きすぎたのだ。
大学生のころ、『ノルウェイの森』や、その他少ないとは言えない彼の小説を読んだが、まだ僕の認識範囲や観念の広がりといった、いわば足にあたる部分は未熟だった。これは間違いないと思う。
それで、村上春樹作品という靴を履きこなすことができなかった。それは靴擦れの痛みの感覚に似ていた。僕には、これは結構大きな痛みだった。
だが、僕のこのような思考の幅が少し広がりつつあることによって、少しずつ彼の作品が、僕に馴染むようになってきたのだろう。先に述べたように、『靴ずれから解放されつつある』状態なのである。
これは幸運なことなのだろう。もちろんそれは裏を返せば『これまで馴染んでいた靴で、もはや履けなくなってしまったものもあるかもしれない』という推測をさせるのに十分だ。
だけどそれは、本当に成熟した認識の範囲、あるいは思考の幅にを手にすることができれば、どんな靴でも履きこなせるに違いない、という希望を覆すには至らないだろう。これも同様に確からしいことのように、僕には思われるのである。
そんな精神的ブレイクスルーがやって来るまで、希望をもって自己研鑽に励み続けたいと思う。