「あるある」という踏み絵
あるあるネタは多くの人が「分かるー」とならなければ、受けない。もちろん一部のニッチに向けてのものもあるけど、マスには受けない。だから、学校生活あるある とか 世代あるあるとか、「受ける」「なつかしい」みたいなのが拡散している。このラジカセなつかしーとか。
あるあるネタというのは、「分かるー」人と「分からないー」人を分ける踏み絵のようななのかもしれない。だから、「あるある。私もー!」と言えない時はそれとなく疎外感を感じるようにできている(大げさですねw)。
私は日本の子育ての大変さも 保育園落ちた悲しみも 公園デビューの難しさもよく知らない。想像はできるけど。「そうだよねー。一緒いっしょ!私もそうだった」とは言えない。「クラスのアラブ人ママに挨拶するものの、一度も目が合わない」ことの不思議さが日本のお友だちに通じないように。(友だちという単語に「お」をつけて、「お友達」としたらキラキラ女子風になりますね。本文とは全く関係ありません。)
父不在の家庭で育ちなので、「お父さんが○○で嫌だ(嬉しい)」みたいのも、全く分からなかった。学生の頃はそうだよねーと薄笑いでやり過ごしていた。その場で「父がいないから分からない」とは言えなかった。
だからってこれは、「あるあるネタで分からない人が傷つくので止めてください!」とかそんなことではなく。なんというか、人は自分で型を作ってそこに入りたがるなと思ったのだ。家庭円満な子どもの型に入りたかったんだろう私は。
例えば「ブラック企業あるある」とか「ママ友難しいあるある」。(「嫁姑うまくいかないあるある・鬼嫁あるある」っていうのもありましたね。今でもあるだろうけど。)
「あるあるーそんなもんだよねー」と、よくあることだからっていうだけで、思考停止になってるかも?と考えてほしい。「なら変えれば?」「やめれば!」「何か別の方法でしてみたら」に対する「そうなんだけどね…難しい(できない)」だから壊れるまで現状維持というテンプレート。危険危険。
「そうなの?知らんかった。」「それが当たり前なの?変だよ。」と空気を読まない努力が必要なのかもしれない。あるあるといいながら、踏み絵を踏み割るくらいの勢いが欲しい。なんだそれ。
と、今回も特にまとまりもアドバイスも無いまま終わります。ちなみに私のイタリアに住む日本人あるあるは、ピザがそんなに好きじゃない。加齢のせいかも…
おわり