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慶元(寧波)と宋銭の関係について【温故知新⑧】

慶元って聞いたことがありますか?

慶元は中国の都市で、宋~明時代に日本との貿易の舞台となりました。

今回は「貿易都市と貨幣経済」というテーマで、慶元の役割と宋銭の流通に注目していきます。


博多と慶元を結ぶ日中間の幹線道路は、平安時代から室町時代まで利用されてきました。

この貿易ルートは弘安の役の際に元が日本に攻め込む遠征ルートとして使われたため、双方の緊張関係により復活と封鎖が繰り返されています。

元では中国国内では銭があまり使われず、紙幣を使用していたが、日本では同時期の鎌倉時代に銭の時代が本格的に到来しました。

貨幣の流通と貿易は切っても切り離せない関係にあります。

宋銭が日本に流入した時期(元)と日本との貿易の変化について、少しまとめてみましょう。

日元貿易の特徴としては、1294年のクビライの崩御により緊張が解け、日元貿易が復興した点があります。

元寇を実行したのはクビライですから、元側に攻撃意思が低下していくと貿易が復活するのは必然です。

14世紀では元の前の王朝である南宋期の貿易状況に回復し、日常的には前近代でピークとなり交通頻度・規模となっています。

また、日元関係の特徴として、国家管理が消滅し、民間貿易が盛んにおこなわれたことがあげられます。

この貿易状況を表す考古史料としては、北宋銭の大量出土、鷹島海底遺跡、新安沈船などがあります。

次に、宋銭に焦点を当ててみます。

日本に向けた貿易船である新安沈船から、宋銭が大量に出土し、引揚分だけで8百万枚あり、換算すると8000貫にものぼります。

今の価値観だと10億ぐらいです。
一貫何円かは時代によって変わるので、断言は出来ませんが、すごい高額なのは確かです。

この宋銭は12世紀後半以後日本で流通が拡大し、14世紀初までに基軸通貨化しました。

また、当時中国で流通していた「大銭」が表記された木簡も見つかっています。

宋銭の貿易をめぐって宋で銅銭密輸問題も起こりました。

銭が海外(特に日本)に流れていくことに対しての対策が述べられている文献もあります。

なぜ問題になるかと言うと、まず宋銭は中国産の銅を使って造られるものですから、作り続けていくうちに資源は枯渇していくわけです。

日本での宋銭の使い道のひとつに、宋銭を溶かして仏像を作ったりしていることから、銅自体に価値はありました。

銅銭の流出を防ぐ役割を持つ機関は、慶元に置かれていました。

その慶元は唐代に明州として独立し、南宋期に慶元と改称しました。

1367年明州に復し、1381年以降は寧波と称すようになります。

そのため、タイトルでは慶元(寧波)としています。
人によっては寧波の方が馴染みがあるかもしれません。

8世紀以来日本との貿易の窓口となり、10世紀末の市舶司(貿易を管理する窓口)設置以後、16世紀前半まで、公式の日中貿易をほぼ独占しました。

だからこそ、慶元(寧波)は宋銭の流通舞台であり、貿易拠点でもありました。


貿易都市の変化は、時代の変化も反映していますし貨幣流通にも大きく関わっています。

日本で有名な貿易都市だと堺や出島あたりでしょうか。

古代にさかのぼると博多、瀬戸内なども外せません。

また貿易都市と流通について書きたいと思います!

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