ACT.76『フォトタイム』
駅で過ごす束の間
石北本線を走り抜き、旭川で観光列車を撮影する為だけに待機している。
特急/大雪は札幌に向かう特急列車・ライラックにカムイといった都市間接続の列車と連携を取っている。
自分が乗車した大雪4号の場合だと、札幌方面への接続はライラック34号となる。16時30分に旭川を発車して、札幌には17時35分に到着する列車だ。この列車に乗車すれば、札幌での時間に大きく余裕が出来るだろう。
しかし、現在は北海道の中でも有数の特別な観光の時期である。この時期限定で、旭川では鉄道ファン的に見ておきたい変わった列車が走行しているのである。今回は初・北海道だったので撮影すべく待機した。
写真は、札幌から到着して旭川四条方面にある運転所へと引き上げていくライラック号。既にこの黄緑のマスクを被った789系電車を見ても、『白鳥』とは思わなくなってきた。すっかり、道内の活躍を知ってしまうと慣れてしまう。
と、ここからは撮影の時間を楽しんだ。今回はそうした記録を記していこう。
函館本線の普通列車に充当されていたのは、721系電車だ。赤電…こと711系電車の要素を強く引き継ぎ、車内には寒冷地仕様として客室とドアにデッキを設置して車内保温に力を入れているのが特徴である。
721系電車は札幌圏でこそ馴染みのある電車…だが、函館本線の普通列車にも起用されている。
既に登場から30年以上が経過しており、JR北海道の車両の中では古参の部類に入っている電車だが、まだまだ活躍の道は続く。
JR化後に登場した近郊形電車は、JR各社でもまだまだ気を吐く存在として重用されている。青函トンネル・瀬戸大橋によって日本列島が鉄道で結節されて既に年月は経過する昨今だが、いつまでその活躍を楽しめるだろうか。
しかし、そんな721系にも終章が迫ろうとしている。
733系電車の増備だ。
現状、まだ動きは確認されていないのだがJR北海道は追加生産として733系電車の発注を掛けている…との情報を京都へ帰郷した後に聞いた。
733系による置換えが実行された後には、写真に映っている初期形の721系から先に廃車が進行していく事が推察され、大きな一歩が始まってくる事になる。
733系では既に、エアカーテンや車内保温の技術が確立され、車両にデッキを搭載したり複雑な近郊形の機構に寄せていく必要もなくなった。
そうしたハイテクな車両の台頭によって、721系の活躍にも足音が忍び寄っているのが現在のJR北海道普通電車の存在なのだ。
「JR北海道らしい」
との気持ちで撮影したこの記録も、あと何年か先には貴重な記録に駆け上がってしまうのだろうか。
JR北海道普通電車の大御所…となった721系電車の姿、あと何回函館本線でその姿を観測できるのだろうか。
珍列車ふたたび
旭川で列車の写真を撮影している時、石北本線の方面から列車が入線してきた。
キハ54形を先頭に従え、後方にはキハ40形のJR北海道色・首都圏色を併結している。
「あれ…北見で撮影したヤツかな、こりゃ」
どこで追い抜いたのだろうか。それとも、何処で待機していたのだろうか。少し嬉しくなった…というのか、「もう1回撮絵できる」との安堵の気持ちで列車を出迎えた。
721系の函館本線の列車から離れて、キハ54形とキハ40形の列車たちの方向に向かった。
乗車した特急大雪と同様、常紋峠に長い北見方面の山間部を走行してきたようだ。
写真撮影にはフィルターを掛けて少しオールドな雰囲気に仕上げてみた。皆さんにはこの写真の仕上がりがどう映って見えるだろうか。
自分としては何か悪く無いというか、少しフィルムっぽく撮影できたかなぁ…と何気ない手応えを感じている。
この編成を前に撮影した北見駅とは異なり、こちらの駅では煌々と照らす灯りが国鉄気動車たちに降り注いでいる。
駅としては対照的な場所なので、様々な撮影に向かって行こうと思う。
最後尾、キハ40-1758と特急ライラックの共演を撮影。
首都圏色のキハ40形と共演する駅は、ライラックの走行する区間でこの駅だけになるのだろうか。
なんとなく、らしいような並びを撮影できたように思う。
実際には先端に向かって行ってから撮影したかったのだが、ホーム先端から記録しようとすると編成が全体に入らず、やむなくこの場所から記録を収める事にした。
これもまた、車両に在る互いの形状。そして国鉄からJRへの車両デザインの変化を思える並びだ。
特急ライラック、789系電車には旭山動物園をイメージしたキリンのデザインが記されている。
よく画像を見なければ分からないのだが…
特殊な仕事をを経て
北見訪問の際にも記した…のだが、キハ40-1758はかつての根室本線をロケ地にした映画。浅田次郎氏の小説が原作の『鉄道員』…の公開を祝してロケ地の根室本線を走行する観光列車・快速『ぽっぽや号』の増結車として多客時に活躍していた。
あのキハ20形ワンメイク仕様に改造されたキハ40-764の相棒として、かつては活躍を見せたのであった。
そうした経歴は撮影時には知らず、京都に帰郷してから知ったのだが、浅田次郎氏の原作を読んでいた自分にとっては何か運命のような出会いだったのかなと考えさせられる。
小説の場面場面が写真を見る度に浮かんできた。
鉄道員…といえば北海道の鉄道の情景として1つ浮かんでくる自分の大事な風景である。
そうした仕事の経験者であり、首都圏色はその時以来の装飾。このキハ40-1758にとっては何か運命だったようなものだろうか。
整然と並んだその窓に、国鉄形車両としての原点的な美。そしてかつて日本の鉄道を見渡せば全てが同じような姿をしていた、統一された日本の情景を思い浮かべてしまう。
そして、運命のようなもの…なのか、令和6年の大きな出来事として根室本線の富良野〜東鹿越が廃止となってしまう。この駅間の中には、映画『鉄道員』のロケ地となった幾寅駅も含まれており、この車両がJR北海道で映画『鉄道員』に携わった車両としての生き証人になるのは間違いないだろう。
かつて、全国の様々な地域に行けば。国鉄の当局によって設計された同じ車両たちが地域の仕事をそれぞれ任されていた。首都圏色は、そうした『国鉄の象徴』であり、日本の鉄道の基礎。そして日本の気動車に於ける象徴の塗装でもあったのだ。
撮影に関しては横のホームに789系…特急ライラックが停車していたので、編成の撮影は足回りが隠れてしまう完全な記録程度の記録になってしまった。実に歯痒いのだが、また次の旭川の旅路では再会できる事を祈るしかない。その時にはしっかりと全てを記録した写真が撮影できると良いものである。
さて。この車両に塗装されている朱色一色の塗装の名称。『首都圏色』に関する意味に関して少し調査をしてみた。
首都圏色という名称で親しまれている、朱色のディーゼルカーの塗装。しかし、この塗装が『首都圏で活躍した前例や首都圏での勢力を拡大したデータは存在しない』のが、実は真実なのである。
では、なぜ『首都圏色』なのだろうか。
その理由は、国鉄時代の赤字を計上し始めた時期に遡る。かつて、ディーゼルカーに配された塗装は2色以上のものがほとんどであった。
現在でも『国鉄色』として人気の高い赤とクリームのツートンカラーである。
しかし、国鉄の現状としては塗装に対する経費すら惜しい状況が会社を直面する。その際、国鉄の中枢が生み出した塗装…それが、現在に伝わりもう1つの『国鉄色』として、もう1つの日本におけるディーゼル車の歴史として語り継がれる『首都圏色』だったのである。
首都圏色の塗装コストカットを目的にした朱色一色の試験塗装は、昭和50年に神奈川県の相模線で開始された。
この相模線での前例を皮切りにして、全国では朱色の単色のディーゼルカーが多く誕生する事になったのである。
苦肉の策として国鉄の実施した施作が結果として全国規模に拡大し、現在まで語り草として引き継がれているのだ。
結果としては「やるしかない」といった非常的な発想がこの塗装の端を発した理由になっていくのだが、現在ではキハ40形などに対しての人気な塗装にまで昇格していく結果となった。
新たな主役
さて、旭川には近郊区間の主役としてH100形気動車が乗り入れている。
乗り入れている…という表現というよりかは、この旭川を中心に勢力を拡大している状況である。
現在は富良野線に宗谷本線の名寄まで。そして札幌方面に目を移せば函館本線の山線にまでその勢力は拡大した。この先、釧路方面でも活躍している車両が存在しており、その勢いは止まる事がない。
国鉄形の車両たちがホームを開け、少し撮影の余白が出来た所に車両のトレードマークである銀色の側面を照らして撮影した。
行き先は『普通/永山』となっている。富良野線に向かって走っていくようだ。しばしの休息の時間である。
通常、H100形といえばこの姿をしており、近代的ながらもメカニックな重厚感を感じさせる姿が特徴的な車両である。
しかし、今回は偶然にして珍しいH100形を発見する事ができた。その車両を見ていこう。
旭川駅のホームに、H100形が2両並んでいる。通常塗装と比較してみると、少しパステル調…というのか、少しカラフルな色味をしている。
そう、この塗装こそがH100形のレアな車両なのである。初期車のロゴを配した山線のH100形も珍しい車両なのだが、この奥に停車しているパステルなH100形は更に珍しいものである。
車両に接近して、形式写真のような記録を残していく。
行き先は『普通/上川』になっており、石北本線に乗り入れる列車のようだ。先ほど、遠景にして眺めた赤い部分には北海道を象徴する動物・キタキツネが配されている。その横には、冬季流氷シーズンなどを象徴する『アザラシ』だろうか。北海道の自然に生息する動物を描いているようだ。
真ん中の黄色く引かれた貫通路の塗装は、まるでゼブラ色の警戒色のようだ。その対比が実に面白い。
車両側面は赤系と白系の塗装に纏まっているようだ。光の都合上、見えにくくなっているのは御了承で。
もう少し細かく撮影しようと思っていた矢先に、旭川に入線したH100形と被ってしまい撮影形式写真的な記録は1枚だけになってしまった。
しかし、H100形の通常塗装と比較してみるとこの塗装がどれだけ目立っている特殊な姿か分かるだろうか。駅の遠目でも非常に目立ち、思わずカメラを向けたくなる存在であった。
首都圏色や道内の鉄道史をまとめたような塗装の国鉄形に関しても妙味があって良いのだが、H100形のラッピングはまた異なっている面白さである。
もう1つの会社
車両の反対側に回る。被ってしまえば、列車に接近して様々な方法でこの車両との出会いを記録していく他にない。
こちらにはオレンジの塗装を基調にして、北海道の野生動物の1つ。エゾシカが配されている。
奥の夏を表すようなブルーの塗装の方には、鮭を咥えたヒグマが配されている。実にシンプルなグラフィックの野生動物たちであった。
先程も記したように、国鉄形の懐かしい塗装に時代を思い返すような色味も面白いのだが、こうした新時代を担うカラフルな姿もまたたまらない。
自分はなんでも記録してしまう人間で撮影に対しての被写体選択はしない方なので、ついついカメラでこの車両を様々な角度から記録していた。
車両の側面を拡大してみると、流氷の天使…ことクリオネが配置されている。
クリオネ、北海道でしっかり有名だったのか…そりゃあ流氷の流れ着く場所ですもんね。実際の姿は中々グロテスクなイメージだけども。
クリオネに関しては、テレビ番組で何度か発見を目指して冬の時期の北海道へ赴く企画を見たり。他には、クリオネの食事シーンの意外性をネットで見たり。
他の記憶としては、クリオネの生きた姿を三重県の鳥羽水族館でまだ記憶ない時期に見た思い出がある。そもそも、今となっては本当に鳥羽にクリオネが居たかどうかも怪しいのだが…
このラッピングは、令和4年に誕生したラッピングである。石北本線の四季を、道内で生息する野生動物と共に表現した見るのも楽しい姿である。
この車両はJR北海道の単独導入ではなく、車両の導入に際して国の補助金と北海道の支援を受けての導入である。車両としては『観光列車扱い』にて導入されたのだが、通常の旭川近郊を走行する列車であれば全ての仕事を担当できる扱いとなっている。
この車両を見た時。少し変化に気がついた。
車両の銘板が1つ多いのである。
通常であれば、製造先の『川崎重工(当時)』と、JR北海道の銘板だけが配置されている。しかしどうだろうか。もう1個の銘板があるではないか。
北海道高速鉄道開発株式会社…一体なんなのだろうか。
まず、この会社は車両の保有としてラッピングされたH100形を保有している。その為、銘板が1つ多かったのだ。
北海道高速鉄道開発…の設立経緯には、道内の鉄道高速化として石勝線・根室本線のを強化。そして北海道経済の活性化を狙い会社が設立された。また、平成9年には宗谷本線の高速化を目標に掲げ。札沼線の電化事業にも携わった過去がある。
企業としてはJR北海道の子会社のような扱いで、会社の情報を探ろうとネットを動かしたところ、JR北海道の系列会社紹介にリンクが飛んだ。
この会社の目的…としては鉄道の強化・改良だけが目的ではない。
鉄道施設・車両の貸付も実施しているのだ。
こうした目的の中で、車両はこの会社が所有。そしてJR北海道に観光列車調の車両を無償で貸出して営業を実施しているのだ。
会社としては平成6年に設立されている。JR北海道の鉄道事業運営には欠かせない要の存在である。
便乗して?
富良野線は、撮影時期の7月後半から稼ぎのシーズンに入っている。
丁度、北海道の夏季リゾートとして有名なラベンダーがシーズンを迎えており、富良野線は大盛況なのである。
一度、列車を撮影していたホームから駅の構内の写真に。富良野線のラベンダー観光を宣伝する駅員手製の宣伝が掲揚され、富良野線の稼ぎ時を猛烈に宣伝していた。
丁度京都で行程を練っていた際にも
「富良野・美瑛ノロッコ…折角だし撮りたいもんだなぁ」
と思っていた。
実際には石北本線での線路温度上昇によるトテツモな徐行の影響を受けて旭川到着に関してはかなり切羽詰まってしまったものの、蓋を開けるとかなりの余裕があった。
「ちょっとまぁ、札幌への手段はまだしばらくあるし撮影して帰るか」
長く世話になった分岐駅で、稼ぎ時に奔走する観光列車を撮影して離脱することにした。
しばらく撮影していると、富良野線からのホームだったろうか。回送表示が点灯した。
通常の普通列車ではないH100形とは異なり、機関車牽引の列車がやってくるのを発見した。
「来たな…」
カメラを構え、富良野線の高架橋を駆け上がる姿を撮る。
富良野駅を16時台に発車。そして、富良野線のラベンダー観光に関連する駅に停車した後に美瑛へ。そして美瑛からはなんとノンストップで走ってきた、ラベンダー見物の観光客向けの列車が帰ってきた。
1時間40分で富良野線を走破する。客車列車独特の足並みで、最後の道を駆け上がってきた。
駅での撮影…?らしく、構内標識などを織り交ぜて撮影した。富良野線の高架橋を駆け上がり、列車はホームに入線する。
通常のDE10系列とは異なった明るい塗装が印象的だ。その後方には、通常とは異なったいかにもよそゆきの客車が併結されている。
甲高い機関車のエンジンを唸らせ、列車が入線してきた。
写真を撮影後に見ての感想。
「冬の機関車らしく、旋回窓には光が当たって格好は良いんだけどやっぱ逆側から撮影した方が順光線だったよなぁ…」
そうした事を思ったのは、本当に遅い時期だった。
改めて、編成として。
完全に光線に隠れてしまい、影の中での撮影になってしまった。
しかし、客車の特殊な窓配置がよくわかるのでこの写真はこの写真で良い仕上がりかもしれない。
高架線の高規格な線路を足を踏み締めて走り、最後の足取りを取る観光列車の姿を撮影した。
ラベンダー塗装の排気煙突が、西陽を浴びて輝いている。
逆にカメラを構えると、客車に設置された運転台が顔を覗かせた。
入線後の撮影は789系特急/ライラックとの並びの様子になってしまった…のだがコレはコレで、良い旭川らしさになってくるのかもしれない。
ノロッコ号から乗客を引継ぎ、きっと789系は札幌に向かって走るのだろう。都市圏との接続もしっかり連携が図られた観光列車の姿を垣間見た。
観光列車を眺めて
ノロッコ号の先頭に立つ機関車は、DE15-1535。ノロッコ号の牽引専用機関車として夏季は富良野線での観光列車仕業に就業している。
ナンバープレート付近の小麦の装いは、春の装いと小麦畑のイメージとして塗装されたポップな姿だ。
咲き誇る小麦とラベンダーを散らしたこの機関車は、6月から7月までの1ヶ月、ノロッコ号の先頭に立ち列車をエスコートする。
8月以降、列車の機関車終了までは美瑛の丘をイメージした緑調の機関車が先頭に立ち2つの装いを見せている。
ナンバープレート部を拡大すると、川崎重工業にJR北海道の銘板も専用塗装で少し違う装いになっているのがよく分かる。
JR北海道の銘板は緑色に。川崎重工業の製造銘板は小麦をイメージした塗装と同化し、黄色調になっている。
列車の先頭に装着されているヘッドマーク。
ノロッコ…とポップに記された文字の裏には、ラベンダー畑の咲き誇る姿が描かれている。
「撮影したから、この列車の記念グッズを駅で買って帰ろうかなぁ…」
と裏で思う気持ちもあったのだが購入せずに旭川を後にした。
列車名は『富良野・美瑛ノロッコ号』となっているのだがこうして見ると
『富良野・美瑛』
の文字に関しては後付けのような印象があり、列車名としての略称・ノロッコ号が強調されているように思った印象だ。
そりゃあ、正式名称で呼称しても長いだけですしね…
機関車の後方に回ってみよう。
機関車の後方には客車が併結されている。客車はシックな茶色の装いであり、国鉄時代の旧型客車の『ぶどう色』を連想させてくる。
色を派手にした機関車と対比するような姿が非常に面白いところだ。
機関車は手すりまでラベンダー塗装の紫に塗装され、細部までラベンダー観光の意識が張り巡らされた様子がわかる。
連結面での撮影になるが、このDE15形の特徴とも言うべきポイントがある。このジョイント部分だ。
このジョイントは何故組まれているのかというと、このジョイントを冬季は解放してラッセルヘッドと接続し除雪仕業に入るのである。
旭川運転所には現在、通常塗装も込みにして何台かDE15形が配属されているのだがそのうちノロッコ号として塗装を変更された形だけは夏季に観光列車の仕事を、冬季には道内のラッセル列車の仕事を…と2面性を持つ機関車として尽力しているのだ。
実際、ラッセルジョイントを冬季は解放し、ラッセルヘッドとユニットを組成して旭川近郊…ないしは周辺の除雪にこのDE15-1535が働く姿が目撃されている。
実際はネタとして親しまれているのか、ハズレ扱いを受けているのか、それは撮影者のよるところだろうか。
車両の連結部に再び視線を戻そう。
先ほど、789系との並びを撮影した反対側の運転台付き客車と比較すると機関車に向き合う側というのは実に客車らしい顔をしている。機関車が解放され、その姿が拝めた際にはその古めかしい姿に驚いてしまうのではなかろうか。
旭…アサとの所属表記が車両には文字で記されただけのシンプルな妻面。そのぶどう色の姿は、駅で異彩を放つ存在としてラベンダー色の機関車と束の間の時間を過ごしている。
少し先に向かって、客車同士の連結面に行ってみた。
機関車との連結姿でもそうだったのだが、この列車は連結部分に非常に濃い『客車』の装いを残している。
それもそのはずだろう。
この列車の以前を辿れば、この『富良野・美瑛ノロッコ号』の客車は通常運用に就業していた50系客車(北海道なので寒冷地特別設計の51系だろうか)だったのだから。
通常の仕事に入っていた50系を改造して、この『富良野・美瑛ノロッコ号』は誕生した。更に車両を眺めてみると、この客車の改造度合いが濃く分かるのではないだろうか。
少しだけ、反対側から撮影した写真を。
この写真を見れば、この『富良野・美瑛ノロッコ号』の為にこの客車がどれだけの改造をされているかよく分かるだろう。
大きく開かれ、トロッコ列車のようにして切開された窓の部分。
木をふんだんに使用し、車両の座席が全て外側に向かっている車内の様子までその窓の大きさは伝わる。
かつて、道内で普通・快速列車として使用されていたであろう50系としての(51系)客車時代と比例してみるとその姿は歴然に刺さってくる。
先ほども記し、写真として何回も見ているように妻面や一部の姿を眺めるとその姿は種客車である51系客車(形式が判明したのでこの名称で)としての姿を濃く残している。
以下、機関車側以外の車両も見ていこう。
富良野・美瑛ノロッコ号の編成をホーム内から改めて眺める。
整然と並ぶ広い窓たちが、この列車の大きな特徴だ。列車の窓を解放的に開ける事によって、隙間風や走行風を取り入れてさながら『展望車』として列車を演出している。
富良野・美瑛ノロッコ号の形式は実を言うとかなり複雑なものになっている。この客車たちの形式は、通常の『オハ』や『スロフ』といったような形式を冠せず、形式は機関車に向き合う側から
『オハテフ510-51+オハテフ510-2+オクハテ510-2』となっており、通常では全く耳にしないような形式が揃っている。電車の定石的な『クハ』や『モハ』などと比較すれば、その差は一挙歴然といったところだろうか。
車両の中の『テ…』という記号こそが、この編成美と実は大きな関係を見せている。
『テ』というのはその名のようにして『展望車』を指し、車両の開放的な設計に対して大きく影響を与えている。
何度も記しているように、この現在『富良野・美瑛ノロッコ号』として活躍する客車たちは、、かつて51系客車として活躍していた。
かつての元形式はこの2両が『オハフ51-29』。そしてその後方に連結された客車が『オハフ51-28』となっている。
現在ではこうして観光列車への転職によって編成を固定され、季節限定・イベント限定での稼働となっているが、かつての仕事は編成を組み換えて活躍する日常的な客車列車そのものであった。
51系客車…といえば、冷房こそ設置はなかったものの。トイレも垂れ流しであり、環境は旧型客車と大差のなかったものの。
その活躍は、北海道版・50系客車。北海道での最後の国鉄客車として最後の活躍を見せた名誉的な形式であった。
この『オハフ51-28。オハフ51-29』がノロッコ号への職業に転職したのは、平成11年の苗穂工場での事であった。
やはり北海道の匠は期待を裏切ってこない。
現代におけるインバウンド観光効果でも、その観光効果が衰える事はないのだから。
こうして屋根の流麗なラインを眺めていると、それはもう51系客車としての原点的な時代を感じられる大きな場所だ。
そして妻面の窓は実に車両らしさを引き出していると言うのだろうか。往時の国鉄時代の活躍に思う事ができる。
そんな車両の反対を見てみると、亀を基調にしたロゴが記されている。
富良野・美瑛ノロッコ号の限定デザインとして亀の闊歩する様が描かれており、列車のスローペースな走りに思いを馳せる事が出来る。
後にこの記事作成の為に列車を調査したところ、富良野・美瑛ノロッコ号は徐行区間がなんと4種類もある名実ともに『ノロい』走りをしているようであった。その姿は客車の窓を大きくくり抜いた車両の眺望設備を遺憾なく発揮していると言っていい。
客車の停車している姿は、この茶色いぶどう系の塗装が大きく影響しており。さながら時代を跨いでタイムスリップをしたような感触にさせられるのが実に面白いところではないだろうか。
かつて51系として活躍した時代には塗装も『レッドトレイン』として語られるような赤一色の塗装であったのだが、その姿はレトロチックな落ち着いた姿に変貌している。
響き渡るエンジンサウンドの甲高さを耳にしつつ、往年の客車全盛期に思いを寄せてみた。
この『富良野・美瑛ノロッコ号』の編成内で最も大きな特徴を見せている形式が存在している。
富良野方の先頭に立つ運転台を保有している客車。『オクハテ510-2』である。
この客車。電車で用いられている『ク』という記号を保有しているが為に、車両には推進運転用の運転台が装着され。車両には機関車を連結せずこちら側の運転台から操作して反対方向に走行が可能なように設計されているのが特徴だ。
先ほども記したように。
鉄道車両に於ける『ク』という記号。電車などでよく見かける『クモハ』などが大きな例になるのだあが『ク』というのは運転台を装着している車両である。通常は電車や気動車に多く目にする記号だが、客車にこの記号が搭載されているのは非常に珍しい。
この車両。『オクハテ510-2』という車両は、かつて51系客車の一員として、『オハフ51-58』として活躍していた客車であった。
その後、他の編成内の客車と同様にして平成11年の折に苗穂工場で改造。そして現在の茶色い塗装で観光列車の仕事を担当している。
客車自体は『オハテフ510形』として改造され側面を削り取っての眺望の良さが拡充されたのが大きいが、やはりこの『制御運転が可能になっている』という改造の点で言えば、この『オクハテ510形』という客車の変貌ぶりは大きなものだろう。
車両を反対側から眺めて、やはり撮影したい場所は台車だ。こうして車両全景を眺められるのは、列車が被っていない場合の特権になってくる。
車両横には、『オハテフ510形』の形式番号が。相変わらず、形式の持つ特殊さには目を奪われてしまう。
台車に関しては車両の種時代と全く遜色のないTR230形を装着している。この台車は、兄弟車両である50系客車の台車に寒冷地としての仕様を追加した特別なタイプの台車である。
ちなみに…だが、51系客車は50系客車よりも早い時期の平成6年までに通常の客車としての運用を終了してしまった。
こうして残存しているのは、観光列車として『ノロッコ号』としての第二の生涯を歩む車両だけ現在は活躍している。
チラッと映り込んでいたが、ノロッコ号の客車には側面の表示器が存在しない。
この車両は51系客車時代からのサボ表記を引き継ぎ、現在も国鉄時代の旅情はそのままに活躍をしている。
列車のロゴマークを挿入した黄色いサボがよく似合っている。
車両は自由席と指定席が混在しているようだが、乗車に関してはまた次回の折に掲載していこう。
そろそろの別れ
列車を反対側から撮影する。
ラベンダーと小麦による、富良野の春夏のコントラストを照らした新塗装のDE15が暗い中だが美しく映えている。
甲高いディーゼルのサウンドを掻き鳴らし、列車は旭川運転所に引き上げて今日の仕事の休息に向かおうとしている。しばしの待機の時間だ。
こうして『富良野・美瑛ノロッコ号』に出会えた事が、この時期に旭川駅を利用した良い証拠になってくるだろうか。
そして保存車による国鉄への覚醒があるうちに、客車列車の面影に触れたのは良い刺激になったものだ。
今更になってしまうのだが。
ノロッコ号の到着時、ホームではこうした表示が掲出されていた。(スクロールになるのだが)
旭川の社員たちによる列車の歓迎メッセージを撮影している中眺めていると、
「列車で見るラベンダーの景色はさぞ良かったのだろうな」
と乗車への期待が高まってくる。
遠隔操作によるオクハテの富良野行きに乗車するか。それとも、客車らしくDE15の牽引で旭川に戻る運用にするか、非常に今から迷ってしまう。
回送の英語表示バージョンも。偶々都合を良くして、メッセージのスクロールが切れる瞬間だったのは何か良い運だったのかもしれない。
観光列車に乗車した後、こうしてメッセージを受け取るとまた何か心が満たされてくる。乗車したわけでもなく、撮影の縁があってこの表示を目にしたのだが、そうした自分でも心の隙間が埋まる温かい演出であった。
またいつか、この列車で富良野線を旅する時間が楽しみだ。
静かに燻るようなエンジンのアイドリングサウンドを掻き鳴らしたノロッコ号は発車の時間になり、自分達の休息の建屋である旭川運転所に帰って行った。
機関車・DE15を撮影している事に対して気持ちが取られすぎだったものだからこのシルエット調な写真しか残っていないのが現状だ。
コレはコレで良いのだが、今を思ってみれば103系のような2灯の前照灯が点灯する走行シーンを撮影すれば良かったかもしれない。完全に出遅れた祭りであった。
オクハテ510形の制御運転台による遠隔操作によって、ノロッコ号が引き上げていく。
旭川駅の骨組みの構造を額縁のように活かして帰還する様子を撮影した。遠目から見ても、ノロッコ釜の新塗装は本当に目立つものだ。
ちなみに撮影したのは7月の末頃であり、8月までギリギリ粘って滞在すると旧塗装のノロッコ号釜が撮影できたのである。何とも失態というか、ニアピンな時期に訪問してしまった。
またいつか。この客車列車に出会えるのを祈って。
ちなみに、この撮影からしばらく経過しての事であったのだが、キハ143形が釧路方面に臨時回送され、『ノロッコ号の置換えに登用ではないか』という不穏な噂が流れた。
再会は叶うのであろうか…?