ACT.72『北見の出会いより〜残り香に思う〜』
北見市到着
石北本線の特急列車、オホーツク号に乗車して北見に到着したのは昼にも近い11時を過ぎた段階であった。札幌を6時50分に出発し、旭川から長い道のりを経て、遠軽でスイッチバック。そしてその先、生田原での常紋越えに挑み、列車は北見に出てきた。
自分が下車した時、北見は凛々とした夏晴れの空の下、快晴の天気であった。旅は既に後半に入っているのだが、その中でもこの北見で迎えた天気はここ1番の状態だったと思う。
さて、ここから目的の場所に向かって北見駅から進んでいこう。
石北の象徴〜昭和と今の交錯〜
駅の通路に出た。既に通路を出て、目的の場所に向かう為北見駅を横断する。この北見からは、全国の食卓を支える『玉ねぎ』の出荷においての重要な駅。そして石北本線旅客運転でも重要な場所とされており、列車の長時間停車や待避、折り返し等に使用されている。
駅の通路から、停車しているキハ40形による普通列車を発見した。遠軽から網走まで走る、長距離の普通列車である。
車両は国鉄形ならなんでも出せるように…なのかそれとも『国鉄形』としての共通運用なのか、後方にはキハ54形が併結されている。
「おぉ、こんなに面白い繋ぎ方するんやなぁ」
なんて思いつつの撮影。
そして、車両の塗装に関しても互いに異なっている為
『首都圏色+JR北海道色+キハ54形』
のカラバリに富んだ姿を見せている。
しかもこうして通路から見下ろすと、順光線の中に停車し夏の日差しを綺麗に浴びる姿が撮影出来る。
屋根の記録に。そして併結バリエーションの良い記録に仕上がった。
見下ろしての撮影なので、駅のホームに跨線橋。これがまた素晴らしい美しさを出している事を考えさせてくれる。なんとも良い駅に下車したものだ。
もう少し接近して撮影した様子になる。
手前の朱色の車両、首都圏色の車両と向き合っているのがキハ40形だ。車両の塗装はJR北海道色。車両は白基調の塗装をしているのがよく分かる。
そしてその後方、三角屋根の奥に停車し白い額縁のようなマスクをチラッと覗かせているのがキハ54形だ。
眺めていると、
「キハ40形での三重連にならなかったのが惜しい」
ようにも見えてくるのだが。後方がまたキハ54形で異形式の併結になっているのも、また
『気動車の面白さ』「気動車の醍醐味』
を語ってくれる貴重な姿になると言える。
今後、JR北海道が新型車両・H100形で統一していけばこのような段違い・差異を魅せる車両同士の併結は過去のものになっていく。
「ここまで来て良いものが撮れた」
の気持ちで、多くの写真を撮影した。
ここまで2枚の写真を掲載したが、通路がガラス張りになっており、反射が写り込んでいるのは御了承頂きたいところだ。
駅を横断し、軽く車両を北見駅の広場から撮影した。
全体ではないが、車両に対して順光線の光が綺麗に当たっている。
沿線撮影や駅構内での撮影が纏まって出来ない今回の旅では、良い記録になった。
車両は、前回にも記したようにキハ40-1758。根室本線での映画・鉄道員ブーム以来の首都圏色に身を包んだ、国鉄らしさと昭和の北海道の景色を語る存在だ。
夏場の順光線の中に照らされているので、車両が綺麗に輝いている。
銘板・検査表記。そして車両の運転台付近のゴムまで、鮮明に輪郭まで捕らえる事が出来た。
ちなみに、もう少し拡大して撮影した方も。
この方が首都圏色の象徴・朱色が映えて車両の象徴である塗装を大きく取り込めているだろう。
スカートを映さず、車両のボディを強調し撮影しただけで大きく印象は異なり、主張するヶ所も変化するものだ。
それにしても夏の光線が記事を記している今となっては非常に恋しい。
きっとこの文字を並べている期間、北海道は一面白銀の世界に纏まっているだろう。それはそれで北国の四季なのだが。
必死に暖を取り、暖房で暖まる冷たい時期にはこうした写真を見返すと何か愛しい気持ちにさせられてしまうものだ。
立ち位置をひいて撮影。
序盤2枚の写真は、この中に大きく掛かっているガラス張りの端から撮影したものであり、ガラス反射はその影響で起きていたものである。
朱色+北海道色+銀色。
この併結だけでも面白さが垣間見える…他に、北見駅のシチュエーションとして国鉄時代からの標準的な駅の姿であった横広がりな駅に近代的なガラスの橋が掛かると、何かタイムスリップしたような、時間の逆行ないし時間の進行の過渡期を思わせる。
何処か我が国の鉄道に、未来や近代的なエッセンスを追加したシチュエーションが見えるのは、この駅の非常に面白いところだ。
幾つか撮影を時間を費やし行ってきたが、ここまで来たら列車の発車の様子まで撮影してから移動したいものだ。少しだけ待機する事にした。
列車が発車していく。昼の燦々とした光を受け、列車はいざ遠軽にに向かって出発だ。常紋の険しい傾斜の道が聳え、国鉄形の車両たちには厳しい道のりになっていくだろう。
列車が遠ざかっていくのを、ぼんやり画面越しに眺めた。
逆光の中撮影すると、キハ40形とキハ40形の差異がまたよく見えてくるものだ。こうした撮影も非常に面白い。
そして。現在は石北本線の象徴のようにして活躍し、現在もなおその姿を見せ日々の運用に耐えるキハ40形だが、令和7年度3月末での引退が正式に発表された。この列車の最後尾、キハ54形に関しては未定なところであるが、少なくともこの宣告は北海道の名車へのリミットが示され、1つの時代の終焉が予告された瞬間である。
H100形以外の一般気動車、キハ150形にキハ54形に関しては命の長さ未知数なものの、1つの形式の消滅。それも寒冷・温暖・勾配…など地域の事情に合わせ全国増備された車両の消滅、活躍のリミット開示は大きいものだ。
この出会いは、自分にとって大きなものだろう。
奇しくも京都に戻り、記事を記している時期にこの発表がJR北海道から公示され、自分は少しの安堵を得たのであった。
さて、何度石北本線の象徴に今後出会えるだろうか。令和7年度にその命を閉ざしていくのであれば、自分にも限られたチャンスがまた来るかもしれない。
列車が遠軽へ向け、留辺蘂を目指した段階で自分は目的に向かって歩み出した。
厚労と時代の弔いにて
北見駅を離れ、目的の場所に向かって歩き出す。
その際、住宅地の間を抜けて少し暗い場所に歩みを進めていくのだがJR北海道・北見運転所の敷地内でこうしたモノを発見する事になる。
蒸気機関車の煙室蓋と動輪だ。
煙室の蓋は大正の貨物蒸気、9600形のもの。そして、動輪は昭和の貨物機であり、アジア圏全体でのベストセラーになった我が国の看板的な蒸気機関車・D51形である。
動輪に関しては機関車の番号…なのか、モニュメントとして『D51-367』のナンバーが嵌められているだけだ。
しかし、煙室の方。この煙室扉に関しては、2つの石燈籠が厳粛な空気を作っている。その下には
『殉職碑』
の文字だ。この場所。北見の運転所がかつて蒸気機関車の基地だった頃に従事した人々の鉄道事故での慰霊を目的とした設置のようである。
最初、この場所を通った時には
「動輪と煙室蓋のモニュメントかぁ」
程度の気持ちで撮影しただけなのだが、一体北見で大きな事故でも過去に発生したのだろうか…として、幾つか調べてみた。しかし、それらしき情報も全くない。
そして、もう1つ思い当たり考える事がある。
常紋越え…だ。石北本線の難所としてこの連載では何度も記しているが、その関連だろうか。
しかし、常紋越えに関しては遠軽での管轄。そして常紋トンネルの建設にあたっての慰霊碑は別の場所にあるという。ならそうか…北見の鉄道に関連した殉職の碑か…
現在はJR北海道の社員宿舎に、気動車の休息の場所である北見運転所。遡ればその場所は、国鉄時代はクロガネの勇者たちの集う機関区であった。北見に蒸気機関車の憩う場所が出来たのは、実に昔の事になる。
北見機関区…前身の野付牛(のっけうし)機関区が誕生したのは、明治44年の話であった。この大地の開墾が進行し、同じく明治44年には鉄道院・網走線の終着駅としてこの地に野付牛駅が誕生した。この野付牛まで到達した線路はその先、根室本線の池田と接続した。釧網本線が池田から野付牛を経て、最終的には網走に到達したのである。
そして、現在にまで続く『北見』の名称に改称されたのは昭和17年の出来事だ。市政施行によって、野付牛駅が『北見』に改称される。同時に、運行の大事な経由点である機関区も『北見機関区』に改称した。かつて、この地には大きな扇形車庫がああり、網走方面にクロガネの休息地点があった。大きな機関区が聳えていたのだという。
北見機関区…になってからになるが、この地に所属し、釧網本線や池北線、石北本線などを支えたのは大正の貨物蒸気、9600形。そして昭和の蒸気機関車ヒット作、D51形。
中でも最も多く所属したのが、貨物機と旅客機の良いヶ所をを持ち合わせ、地方線区での万能機として機能し、客車に貨車に色んな仕事を担当しどっしりした構えで佇んだC58形だ。北見には多くのC58形が所属し、石北本線は旭川。そして美幌からの分岐路線である相生線を担当したのであった。
最終的には昭和50年代まで蒸気機関車の活躍がこの北見では見られた。また、北見機関区の写真を調査していると気動車の立ち寄る姿も確認できた。ディーゼル機関車たちも、この場所を憩いの地にしていたようである。
現在ではそうした蒸気の面影。全国の国鉄主要幹線で見られた装いは完全に消え、JR北海道の北見運転所として石北本線の中継地点を担当している。路線網、鉄道を取り巻く環境は大きく変化したが、この地での鉄道の存在は心強く頼もしいものだ。
発展の存在に逢う
その後、JR北海道の社員向け宿舎などが立ち並ぶ狭い線路沿いの道から、住宅街に入った。
「あれ…分からんな…」
悪戦苦闘していると、住宅街の中から印象的な機関車のテンダーが顔を覗かせる。
「お、ようやく見つけた、コレかぁ…!」
おった。この気持ちにさせられる瞬間が、最も安堵を感じ保存車を探していて楽しい時間だ。
住宅街は、そこまで線路から遠ざかる事なく再び車通りのある場所に出ればすぐに線路に出会う。石北本線とは近い場所だ。
西北見駅の方角に向かって歩き、北見ハッカ記念館のすぐ近くにこの機関車は佇んでいる。
北見市といえば玉ねぎ。そしてハッカと多くの観光要素があるのに、この機関車を訪問したのには大きな理由がある。
機関車の形式は、D50形。かつては型式の呼び名が現在に従うアルファベットを混ぜたものではなかったので、大正時代の登場時期には9900形機関車として生み出された蒸気機関車だ。
その後、D50形の形式を授かって蒸気機関車の晩年の時代まで活躍した。写真がその解説の看板になる。しかし、この解説看板に関しては敷地内の接近が不可能だったので遠方からズームして撮影。どうにか記録ができた。
北海道内でもD50形は大きな成果を残している。全国では380両が生産され、決して多いとは言えない台数ではあったが炭鉱で算出された石炭の輸送。そして勾配区間などでの旅客列車牽引など、残した功績は大きい。
では何故、この機関車をわざわざ時間をかけて訪問する必要があったのだろうか。
実は、理由を挙げてしまうと単純なのである。
D50形。実は380両と多くの台数が製造されたのにも関わらず、実は保存機が極端に少ないのだ。
保存機は全国内で探しても、この北見市・三治公園に保存されているD50-25。そしてもう1両が保存されている。
もう1両は、京都鉄道博物館にて保存されているD50-140だ。その2両のみしかD50形の保存機はなく、全国を探しても希少な存在なのだ。折角、蒸気機関車の晩年まで働いた功労者の扱いにしては切なすぎるのではないだろうか…とでさえ思ってしまう。
しかし、D50形の保存機の台数の少なさには単純な理由があるのだ。
まず1つが、
・廃車解体が進行している事
であろうか。そこまで有名な形式でもなければ、知名度の高さでは後輩機のD51形の方がダントツである。そして、もう1つが
・改造機への編入で晩年は台数が少なめだった事
もあるように思う。
一旦、北見市は三治公園の写真から離れて。
この写真は、山口県で保存されているD60形である。このD60形。元を辿れば、D50形なのだ。
昭和26年より先、大正生まれだったD50形は延命措置。そして規格の低い路線への入線を目的に改造を受ける事になった。その改造の為、D50形はここで数を減らしたのだ。
D50形は保存機が2両だけだが、改造機のD60形に関しては九州地区を中心に倍の4両が保存されている。
では、D50形と比較してどの部分を改造していったのか。見てみる事にしよう。
D60形の足回りである。
この部分に改造が加わった。
足回りの軸重分散の為、キャブ下の台車を2軸に変更したのである。そしてもう1つは、先輪に小径車輪を使用する…である。78両の改造でD60形が誕生したのだが、主に西日本方面での活躍が主になっていった。動輪などに変化はなく、簡単に手を加えるだけの手軽な重量分散の改造が施されたのみだった。
再び、北見市は三治公園。キャブ下の台軸に関しては撮影が出来なかったが、コレに関しては仕方ない状況である。
何故か機関車に接近は出来ず、遠景越しに眺める状態だったのだが順光線の空も相まって綺麗な記録。そして綺麗な快晴の状態での撮影が叶った。
青空の下、まるで絵に描いたような状態で機関車が佇んでいる。ロケーションとしては屈指の情景だったかもしれない。しかも、この場所には鉄道ファンは滅多に訪問しないので落ち着いて撮影できた。
ハッカ記念館が近いからこその観光客の撮影、また沿線住民たちの僅かな眼差しを受けるのみであるように思う。
クラシック蒸気の傑作
我が国の国産蒸気機関車の歴史は、大正時代の9600形によってスタートした。その話は有名である。(この連載では何度も記しているのでしつこいかもしれない)9600形は、大胆な改良と設計段階での緻密な積み重ねにより想像以上の強力な馬力を発揮し、蒸気機関車時代晩年まで勤労する老兵となってゆくのである…が、このD50形も欠かせない。
この写真を見ていただきたい。この中には、大正時代の蒸気機関車の傑作として。そして大正蒸気の集大成としての多くが詰まっている。
まずは、煙室扉下の給水温め器。この場所に配置するのは、同じく大正時代に旅客機として登場し活躍を開始したC51形にも言える。C51形は大正時代に18900形として誕生した。こちらは客車の仕事を中心に勤務したが、現在でも保存機を有する名機だ。この時代のデザインの1つ…トレンドのようなものだろう。
そして、もう1つが煙突だ。この煙突は化粧煙突として、大正蒸気によく見られた差異である。ただしこの煙突には皿状の火の粉止めが装着され、少し見た目に変化があるのだがそれもまた貴重だ。
また、後方部の丸みを帯びているドームの形状。これもまた大正蒸気の特徴だ。
この写真をパッと拡大して切り取って意識して撮影しただけでも、この機関車に対して
『クラシックな機関車』
としての印象を多く受ける。
時代のトレンドを多く吸収し、まさに短かった大正の時代に一石を投じる時代の傑作なのだ。
また、この流麗な屋根を描くキャブも大正時代の流行の象徴なのである。
旋回窓、つらら切りと寒冷地の特徴が多いのも、活躍の時代を閉じ込めたような見た目で非常に興味深いところだ。
だが、切り抜いてもしっかりと配管類に安全弁の輝きなど、整備の手が行き届いた様子を覗けるのは保存機目当ての訪問客にとって嬉しい限りである。タブレットキャッチャーまで美を欠かさないその姿は、本当に目を奪われるとしか言えない光景だ。贅沢すぎな場面に立ち会っている。
このリベット溶接止めの炭水車(テンダー車)も大正蒸気としての特徴を閉じ込めたものだ。遠景にはなってしまうが、非常に良い証拠…特徴を撮影できたのは非常に嬉しい。
さて。このD50-25の活躍を見てみよう。
D50-25は大正13年、9900形蒸気機関車として誕生した。当初はD50-25ではなく、9924として番号だけを冠する蒸気機関車として誕生した。その後、昭和3年にD50-25に改番される。
落成して最初は、北海道ではなく昭和6年に敦賀に配属された。ここから活躍が始まっていく。昭和8年、敦賀を離れる。次に配置されたのは上諏訪であった。その後は昭和22年に上諏訪から福井へ。この時期に一定の休車を迎えていたようであるが不明だ。
そして福井を昭和25年に離れて青森へ。昭和22年、青森から函館に借入が行われる。昭和28年、再び青森へ。この先、2〜3年ほど青森県内で動きを見せているが不明なので掲載しない。(自分でよく分からない範囲)
北海道の地を踏み、本格的な北国生活を始めたのは昭和29年だ。岩見沢に配置され、ここから現在までの保存に至るまで北海道生活が始まる。岩見沢の後に昭和35年、旭川へ。旭川は昭和38年に離れ、追分に配属された。その後は昭和43年に廃車されるまで、追分で過ごし蒸気機関車の終焉を迎えたのであった。
北見市・三治公園での保存にて現在を迎えるが、実は北見市とは何の縁もない。しかし、そんな中でも保存され。市から愛すべき遺産としての扱いを受け。綺麗な手入れをされているのは非常に感動の限りだ。これからも手厚い保存の動きを期待したい。
正面から、D50-25を観察する。この日の夏晴れ、雲も少ない天気の中に美しく映えている。
今でも思うのだが、北海道の暑さはしつこくなく、普段は京都の市内…盆地のくぼみのような場所で過ごしている自分にとってはこの暑さも多少は楽に思えたものである。
デフレクター(煙除け)を装着しつつも、前面から眺めている時のクラシックな姿は大正蒸気の魅力に粋に多くの要素を感じる。この正面から眺めても、前面の目立つ位置にドカっと置かれた給水温め器はよく目立つものだ。綺麗に装飾された証拠、金色の装飾を夏の日差しに反射させて佇んでいる。
ここまで綺麗な姿を見せていると、今にも発車しそうなくらい。機関車の躍動を感じられそうなくらいに熱い気持ちにもさせられてくる。
背後の住宅街もそう感じさせる1つの要因なのだろうか。
最後に、北見市はこのD50-25の保存されている三治公園の様子を写真に遠方で掲載して終了しよう。
石北本線・遠軽側の公園のような場所…住宅街をポッカリ割ったような場所にこの機関車は滞在している。
何度も記しているように、北見市の観光施設。『北見ハッカ記念館』も近いので、ハッカ記念館への訪問ついでにこの機関車を眺めるのも良いだろう。
訪問時間帯は昼時の時間で、大体が12時頃だ。夏の順光線で綺麗な姿を捉えたが、実際に他の時期に良い光線で同じ昼時に撮影できるかは不明である。
また、屋外保存の為冬季には雪の覆いに篭っている。その為、雪との共演は撮影できない。
線路が近い場所なので、石北本線の乗車ついでに行くのは充分に可能だ。
現在は丁度、北海道は雪の多い冬季を迎えている為姿を眺める事は出来ないが、5月以降の春季にはその姿を是非とも拝んで頂きたい。
今日もD50-25は石北本線で活躍する後輩の走る音を聞きながら。道東の人々の生活する音色を聞きながら、静かに余生を送っている。希少機の周辺は、いつものような日常生活が静かに流れていたのがまた、居心地が良い場所であった。