イカついアイツを手に入れた
へーい。
しっかり浸かっちまったぜぇい。
というわけで、南海Bトレイン第二弾は。
こちら。21000系ズームカー(新塗装)。
関西では愛称で親しまれた存在であり、平成の初期まで南海は高野線で活躍した車両である。
活躍した時期は昭和33年。高度経済成長は真っ只中の時代であり、
『もはや戦後ではない』
と言葉が残される時期も近いであろう。
そんな時代に南海に於ける『大運転』の今日に於けるまでの基礎を成立させたのがこの21000形電車なのである。
平成9年まで支線転用されつつも活躍し、惜しまれながらの『さよなら運転』を終えた後には車両の使い勝手を買われ島根県の一畑電鉄へ。そしてもう1つは静岡県の大井川鐵道へ。大井川鐵道へ譲渡された仲間に関しては現在でも活躍中であり、関西から東海へ向かう中の関西私鉄ファン、昭和を生きた人々。そして南海ファンを楽しませているのである…
が、この商品での姿は
・新型車両、2000系導入以降の平成7年以降の姿
を商品にしたものである。
平成7年〜9年の短期間が示すように、この姿は晩年も晩年であった…のは確かだが、
・21000系にとって僅かな時代
でもあり、ある意味で
・伝説の黒歴史のようにもなっている。
かつての姿。そして大井川鐵道で活躍する現在の緑基調の姿を知っている人々には伝わるのだが、まぁ
「ダサい」
のは間違いなく、そして
「厚化粧」
と揶揄われても仕方ないのはこの色の語るところだ。
そんな21000系の新塗装…のBトレインだが、
「売れてないならある意味でチャンス」
と考え、購入して制作する事にした。
そしてこの記事では車両紹介後に、南海高野線…関西私鉄屈指の難所を突破する
『大運転』
に関しても掲載しよう。
以降、はじまりである。
組み上げ完了。
いつものように(写真残せ)ではあるが、制作工程は飛ばして完成品である。
南海の昭和の象徴であるグリーンから模様替えしたこの姿は、実に情けないとでも言おうか。折角購入して作った顧客が言うものでもないのだが、少々陳腐な感じも否めない。
この姿で最後の最後の生涯を駆け抜けたのは非常に面白い…ところであるが、昭和を駆け抜けた名車の最後には実に言葉にし難いものがある。
実車と向き合ってきた南海沿線のファン。そして昭和の関西私鉄を撮り続けた人はこの姿を見て、一体何を思っていたのであろう。
ただ、実際にデフォルメしてみると
「コレは中々行けるな」
とまた違った感情も思うのである。
ジオラマを引き立てる逸品にはありかもしれない。
この電車の特徴として持つ丸みは、何処か人の心を動かす何かを持っているように思う。
なお。
制作にあたって少し改良を加えた点としては
・ヘッドマーク(種別板)が独立して見えるように
という事で
・ハガキの裏面を用いて背後から接着剤で留める
という手法を用いた。
車両の個性を引き立てていれば、工夫の冥利があるというものである。
制作にあたって、実際の商品的な事を記す…と、かなりパーツははめ込み易いしステッカーも貼りやすい。全体的に苦戦したヶ所は無かったという印象だ。(当社比)
皮肉にも車両の黒歴史にディテールで売れていないのは中々の残念な点であろう。
しかし考えてみれば、だ。
車両の歴史的な話に立ち返って考えてみれば、こんな古めかしい見た目をした昭和の高度経済成長期生まれの乗り物がたった30年近く前まで普通に現役で大阪の都市圏を走行していたのは何というのか、日本の工業的な製品の物持ちの良さを証明していると言っても良いのではないだろうか。
南海電車と大運転に関して
さて、ここから少しだけ長く記していくのは、この21000系が活躍し尽力した功績の1つである南海電車の『大運転』に関してである。
この大運転は南海を支えるに当たって必要不可欠な物であり、そして多くの人々を支えた事象なのである。
和歌山県の山奥。紀伊山地の中には弘法大師空海が開いた1200年の霊場である真言密教の聖地、高野山がある。
我が国では多くの人がこの場所を『聖地』として慕っているが、この地に鉄道を通したのは昭和3年の事である。
この時点で線路は現在の終着地である極楽橋まで到達し、厳しい山々との戦いが始まったのだ。
大阪の繁華街・なんばとの直通運転が開始されたのは昭和7年の事になる。
高野山まで至る鉄道。南海高野線の橋本↔︎極楽橋については、カーブも多くなり険しい山岳地帯に線路を敷き、南海の歴史にて多くの山岳線に対応した車両が開発された。
そして、いつしかこの極楽橋から大阪・なんばまでの直通運転をその線路の変化の多彩さから南海では『大運転』と名称がつけられる事になったのである。
高野山を降り、そこから橋本・河内長野方面では線路の形状は全く違う。
ベッドタウンを走行し、平野を駆るその線形に南海は幾多の困難を乗り越えてきたのだ。
そんな中、昭和33年に登場したのがこの本製品の車両。
21000系・ズームカーである。
車両の登場時は黄緑系のグリーンに緑のラインを車体に引いた塗装だったが、晩年は他の南海車両同様に白基調の新塗装に変更され活躍した。
この21000系が『ズームカー』と呼ばれる所以は2つある。
1つが
・カメラの広角・望遠をカバーするように南海の線路に徹底的に対応した車両である事
である。
即ち、この車両の性能をカメラのズームレンズに形容したのである。
橋本〜極楽橋までの山岳地帯を力強く駆け上る登坂性能。
そして橋本を出てなんばまでの大阪府に於ける平野区間・都市区間を高速で走行出来る力は南海にとって会心の車両であった。
もう1つが、
・山岳地帯を駆け上る姿を航空機の『ズーム上昇』に形容した事
である。
このズーム上昇の言葉をそのまま『ズームカー』に転用した…というものであるが、やはりカメラの説の方が定番であるようだ。
少し話の順が逆になったが、南海には2種類の車両がある。
1つが、写真の20m級車体である。
この車体は主に本線を走行する車両に見られるものだ。
高野線でも橋本まで乗り入れる車両はこの20m級の長さで設計されており、同様に中百舌鳥から相互乗り入れをしている泉北高速鉄道の車両もこの20m設計で製造されている。
これらの車両は、
・車体の長さ
によって山岳区間に入線できないのだ。
もう1つが、この17m級車体である。
写真は高野山・極楽橋からなんばまでを結ぶ特急こうや。
この車両は山岳区間からの直通運転…即ち、『大運転』に使用する為に車体の長さが短くなっている。
橋本から極楽橋までの山岳区間は先述のようにカーブが多く、20m級の車両では長さの都合で走行できない。
その為、車両・列車ごとの輸送量は減少してしまう事情を覚悟承知の上で17m級の車体で設計し、山岳区間の突破に挑んでいるのである。
たった3mの車体長の差
ではあるが、非常に大事な車両の役割から来る個性なのである。
再び、21000系の話に。
21000系はそんな現代にまで伝承されるズームカーたちの基礎を造った車両であり、以降の車両も21000系の設計に基づいて登場している。
平成2年。
21000系に後継車両が誕生した。
それが現在にまで至る2000系である。
2000系は軽量ステンレス車体で製造され、そして車両にVVVFインバータ装置を搭載した。
山岳区間を突破する為に全車両にモーターを搭載。
全車両モーター搭載は21000系以降引き継がれた性能であったが、しっかりとズームカーのブランドを継承している。
平成9年に21000系が引退して以降は、この2000系がズームカーの新たな役割を託されたのであった。
但し。
2000系に関しては登場後に悲運な事として徐々に直通利用の乗客が減少していった事によるものか大運転の直通列車が削減されていった。
そんな事情から2000系は本線に転属し、更にはその車体長を活かして支線の仕事にも就業した。
今回は21000系のBトレイン購入…から序でに南海の大運転に関して。そしてズームカーの歩みに関して記しました。
少しだけ蛇足気味だったかもしれません(筆者後記)
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