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ACT.117『赤備え、背にうけて』

真田と九度山

 冒頭の写真は、九度山駅の改札を出てすぐ。駅前の光景である。
 真田の家紋としての象徴である『六文銭』が駅の更新によって配置され、来る人に
『真田一家と縁のあった土地の玄関口』
である事を語りかけている。
 真田信繁(幸村)・昌幸の蟄居によって過ごしたこの地であるが、駅の乗降客はやはり装飾にも通づるところがあるのか観光客が多い印象であった。
 九度山の前駅である学文路とは異なり、コチラは全面的に観光地が最寄りとしての性格が濃く、『真田家』の身に灯した『赤備え』に包まれている。
 ここで少しだけ、
・真田家と九度山
の歴史を振り返っておこう。(大概は御存知かと思うんですが)

 まず、時代は九度山に真田昌幸・信繁親子が蟄居で向かう少し前の時代に遡る。
 この時、時は『天下分け目の戦い』である『関ヶ原の戦い』の前夜にあたる。
 この時、徳川家康率いる『東軍』と石田三成が率いる『西軍』とに分かれて、岐阜県の関ヶ原で決戦となるのだが、そんな関ヶ原の戦いの折に徳川家康の息子である徳川秀忠…後の江戸幕府二代目将軍となる男が参戦をするハズであった。
 しかし、秀忠は足止めを喰らって関ヶ原には参戦できなかったのだ。
 ここで、当時は豊臣側…西軍に付いていた真田昌幸・信繁親子が関わってくる。
 慶長5年、真田昌幸・信繁親子は東軍に合流する予定となっていた秀忠を居城としていた上田城で足止めし、戦力の減衰と西軍の戦績に貢献した。
 しかし、読者の皆様が知るようにして関ヶ原の戦いというのは徳川家康が率いた東軍の勝利にして終了したのである。
 西軍に付いていた真田親子には当然、『死罪』相当の罪が科される事に…はならず、信繁の兄であり、徳川家康の東軍側に付いていた信幸と本多忠勝の嘆願によって紀州・高野山への蟄居が言い渡されたのであった。
 後にこの紀州生活は九度山に移り、現在のように真田家の残照がこうして語られるまでにつながっている…というわけだ。
 慶長19年、豊臣秀頼からの使いによる徳川家滅亡に向けた計画を受け入れ、九度山を後にした。
 慶長20年に起こった『大坂夏の陣』に向けての出陣である。
 …とこうして14年近くの紀州暮らしであったのだが、その中には信繁の父である昌幸の死など様々な出来事があったそうな。
(これより先は皆様の探究心にお任せします)

山岳の腹拵え

 この九度山で下車したのは他でもない。
 事前に高野線山岳区間についての調査で気になっていたヶ所、駅構内併設の飲食施設である
『おむすびスタンド くど』
を訪問する為であった。
 やはり初の山岳線デビューを飾ったのであれば、この場所で腹拵えを済ませてから先の途上に足を進ませたい。その思いで先ずは訪問した。
 自分が店を訪れた際には行列が出来ていたが、知らず知らずして自分の順番がやってきた。
 釜で炊く白米を握り飯にして、新鮮に温かいうちに食せるのがこの店のウリである。
 最初はこの店で、和歌山といえば…である『めはり寿司』を注文したかったのだが、画像のように
・塩むすび
・マグロの煮込み
・おかか
とこの3つにした。
 どうやら店の情報によると、この3個を食べただけで通常の胃には充分のようである…との事であったので、自分の気紛れで選んだこの3種を食した。
 和歌山らしい昼は食べなかったが、普段は食せない新鮮な握り飯というのもまた良いものである。

 食事に訪問した『おむすびスタンド くど』では、写真のように鉄道設備に関する展示がかなり充実しており、隠れたディープな鉄道のスポットとしても面白い場所であった。
 写真はかつて駅で使用していた列車の制御盤と思しきもの。(コレで合っているのだろうか)
 中心の駅の司令所に設置し、この司令所で写真のパネルに向き合い、
『今どの列車がどの駅間を走行しているのか』

『何処でどの列車が行き違いや通過待ちをしているのか』
などを証明する位置証明の機械としてかつては鉄道の中心を司ってきた。
 しかし、時代の流れと共に役目を終え。こうして我々の目にかかる場所にやってきたのだ。
 かつての山岳の守護神を眺め、再び自席で食事の時間とした。

 他には、新今宮(確かそうである)で発見された開業間もない頃。大阪のミナミに足を伸ばした頃の南海の路線図が掲揚されていた。
 この路線図を見ながらの食事というのも、また贅沢で素晴らしいひと時となるに違いない。
 南海全線を鳥瞰したモノとなるので、現在旅をしている最中の高野山は勿論の事、果ては海の方である和歌山市なども記されている。
 この頃であればおそらく四国連絡の航路は船舶…であったとしても現在のように和歌山港ではなく、多奈川方面から淡路島を経由しての道筋となっていたのではないだろうか。
 現在はすっかり支線の一部へと埋没してしまった路線の1つの栄光をこうして目の前に出来たのは、大きな発見である。
 写真には昼時であり食事の客が多く、この他収めていないのだが多数の鉄道部品や鉄道の廃材が店内には散らされていた。
 是非ともこの目で御確認いただきたい。(丸投げをすな)

英雄の名は

 食事をしつつ、退店時間の目処にと既に端末にインストールした『南海アプリ』にて列車の位置情報を確認。
 すると、極楽橋方面から観光列車『天空』が下山してくるではないか。
 折角なので、この店から撮影しておく事にしよう。
 位置情報が前駅である高野下駅に差し掛かったのを見計らって、カメラの電源を投入する。
 しばらくすると、連結されている2000系電車の自己主張が強い爆音のブレーキングサウンドによって列車の入線を認識した。
「あれ、意外に見えない…」
そう思いつつ撮影したのがこの1枚。
 う〜む。撮影していてナンだが、やっぱり微妙なんかなぁ。
 一応…と記してだが、自分のも1つの山岳線訪問に費やした理由がこの観光列車『天空』に触れる事であり、空前絶後のズームカーブームが到来している自分にとっての最大限の刺激だったのである。

 連結面から目を外して、『天空』の本体となる緑色の車両を見てみる事にする。
 この車両の最大の特徴として、
『客用扉を改造した風を感じられる展望デッキ』
が挙げられる。
 今年で(令和6年)で誕生してから15年になるのだが、登場した平成21年というのは嘸かし前衛的な試みを鉄道車両に導入したものだと感嘆する装備だったであろう。
 しかし、だ。
 一般にはこの場所が大きく目を惹き、他の電車と異なる異彩であったとしても自分の中では。
 1人の鉄道ファンとして大きく感動するのはまた別箇のヶ所なのである。
 ロゴマークを見てほしい。
・50‰ ZOOM  CAR 2208
とある。
 50‰(パーミル)というのは鉄道用語であり、後の見所として解説するとしてやはり目を引くのは
・ZOOM CAR
の文字だろう。
 関西私鉄たちを賑わせたかつての名優たち。
『◯◯カー』
という和製英語に近い、各私鉄たちが売り出した造語がこうして車両のロゴに昇華され、現在も車体に記されて生存しているのである。
 例に挙げてみれれば
・阪急…オートカー
・阪神…ジェットカー
・近鉄…ビスタカー
・京阪…スーパーカー
と関西を群雄割拠する各4社の大手私鉄にもコレだけの愛称がある。その中でまた、
・南海…ズームカー
という構図は関西私鉄の定番として昭和を飾ったのである。
 しかし、名称だけ考えてじっくり見てみれば近鉄・南海にのみその言葉が残った感じと言っても良いだろう。
 天空の車体に記されたロゴマークは、南海の果たした大運転への歓喜がしっかりと残っている。

 おむすびを食しつつ、横に座った旅人と少しだけ言葉を交わす。
 どうやら南海沿線…ではないが、和歌山方面からの訪問客のようであった。
 米の味わいを胃に収めて、再び歩き出す。
 少しだけ真田の赤備えに身を染めた九度山駅の様子を見ていこう。行き交いし車両たちと共に。
 という事で最初の写真は極楽橋に登っていく2000系だ。
 平成17年以降の系統分離の中でも、各駅停車としての活躍は揺るぎないものであり、大運転の職務を解かれても橋本以遠で質実剛健に活躍中だ。
 前照灯は令和に入って以降にLED式に改められたが、30年近くの時を経て新たな輝きを手に入れた山岳の役者には少し違った閃光が宿っている。

 停車した2000系と真田の赤備えに身を包んだ駅の柱を合わせて。
 2枚扉の中に覗く山の威容、そしてこの地に踏み入れる事を許された2枚扉の17m車両の威厳がひしひしと伝わってくる。
 この駅で小休止となり、登山道の中腹でしばしの休息といったところであろうか。
 一息を吐き、その先の紀伊山地に向かって足を進める準備のように佇む。

 踏切が開扉し、列車の往来がなく安全にも注意を払ったところで車両の前面を撮影しに向かう。
 こちらの車両後方、なんば方は剥き出しの貫通幌と前パンタグラフを装備した少し厳つさの残るスタイルである。
 このスタイルを持つ南海2000系は、2次車以降に見られるスタイルであり、2両編成・4両編成関係なく保たれている。
 九度山の特徴である、赤備えと木造のホーム上屋の中に佇み、山の空気を浴びていた。
 と、ここで少しだけ天気の雲行きが怪しくなってきた。
 とはいえ、特段この日に雨が降ったり大きく天候が変化したわけではないのでまだまだ安心できる範囲であろう。

 少しだけ離れた位置での撮影。
 この方がしっかりと2000系の威容と特徴である前2つのパンタグラフが分かるであろうか。
 山岳電車として本格的に平成以降の次代を担い、17m級車両として橋本以遠、高野山への連絡車両として高野山は極楽橋までのアクセスを託された車両ではあるものの集電装置…パンタグラフはこの写真のようになんば方に2基のみの搭載である。
 あとの車両にはモーターを搭載した全電動車の編成ではあるものの、全ての電気関係の軸は橋本・なんば方面の車両に一任した結果となっている。

山歩記

 さて、高野山は極楽橋へと登山に向かうズームカーを眺めた後に自分がこの地でやってみたかった事をここで実行する。
 高野線の徒歩撮影だ。
 線路に沿って歩き続け、良い感じで線路が開けて見えたら列車の通過を待機して撮影。そして次の場所へ歩み続けるという繰り返しの方法である。
 九度山からは下山となる学文路への方向か、それとも上る格好となる高野下への方面か。
 と、少し思念して自分が選択したのは、
 高野下に向かう上りだった。
 そして、この写真を撮影して以降いよいよ開始となるのだが、コレ以降自分は大きく後悔をしてしまう事になる…
 さて、九度山を出て線路に沿う道の始まりだ。

 最初、どうやって高野下駅に向かうかの思念で直感的に選択した道を征く事にする。
 駅を見下ろせる高台のような場所があったので、この場所で橋本方面に向かう列車を撮影し…たと言おうか。
 低く唸るようなあの独特な減速音がこだまし、その瞬間に振り向いてカメラを構えたのであった。
 と、辛うじて撮影できたのがこの写真であった。なんとも言えない独特の1枚ではないかと自分の中では反芻している。
 この高台にそのまま沿って道なりに歩く…と、先でとんでもない運命に出くわすのであった。

 ん〜と、何処だろう…
 写真的には良いものの、何処か自分の中では不安でしかなかった。
 並走して歩いて行こうと思った高野線の線路は徐々に後方の彼方へと消え、山の中に吸い込まれ迷ってしまったのである。
 後に残ったのは、荒涼たる山上の景色であった。
「あかんなぁ…とにかくもう、ここじゃないって分かったから引き返して行こうか…」
地図アプリなどは幸い起動する電波圏内であったので、いそいそと引き返して九度山方面まで戻る。ある意味で仕切り直しになってしまい、山の中を再び徒労して線路側にリスポーン。

※九度山を発車し、高野下に向かう2300系。今頃並走する線路を必死に格闘する列車たちはこの場所を走っているのだろう…

 九度山から先、高野線の山岳区間に待ち受けるはとてつもない急勾配だ。
 この急勾配は、先ほどの観光列車・天空のロゴマークが示しているように
『50‰』
の勾配を持つ鉄道の最難所区間なのである。
 関西の大手私鉄では有数の険しさであろう。
 さて、この50…の先には見慣れない単位が並んでいる。
 この単位。‰…は(パーミル)と読むのだ。
 ‰(パーミル)というのは、主に鉄道で使用される単位であり
『1,000メートル進む毎にxメートルの高低差が生まれる』
というものだ。
 つまり、この場合。南海高野線の場合は
『1,000メートル進む毎に50メートルの高低差が生まれる』
となる。鉄道…いや、乗り物にとっては十分険しく、人類もよくこの場所に鉄のレールを敷いたというものであろう。
 と、そんな格闘を思いつつ並走している線路横を歩いていると少しづつ山に覆われているが架線柱などが見えている。
「う〜む、やっぱり最初からこっちやったなぁ…」
そんな後悔を背にして、足に負荷をかけ高野線を目で追いかける。
 記し遅れたが、歩く道は狭く自動車たちの方が走行する面積が大きい。
 タイヤがアスファルトを蹴るサウンドを耳にした瞬間に道を避け、自動車に道を譲りそしてひたすら自然に満ちた道を歩いていく。
 途中、木々に覆われた架線柱の隙間から車輪が擦れる甲高い音が聞こえた。
「あぁ、大丈夫だな」
という安心感と一緒に、鉄道では滅多に聞かない音を耳にした瞬間というのは改めて鉄路の険しさ、そして先人たちの畏敬の念を強く思い浮かべるものである。
 すると、地図アプリで観測をしていた列車との交差地点に差し掛かった。

名刹で向き合う

 南海高野線の山岳区間といえば、やはり筆頭にこの撮影地は有名な場所である。
 南海公式もこの場所を高野線の有名撮影地・電車のウォッチスポットとして宣伝しており、一先ずではあるが歩いて辿り着いた。
 が、そうした余韻に浸ろうとした頃。
 トンネルの奥から曇った音が聞こえてきた。
「あ、来たな…」
もう少しノンビリ構えてアプリと睨み合いつつ撮影したかったのに、まさかの結果で最初の被写体を出迎える。
 コレはコレで良かったかもしれない。
 意図せずしての写真にしては充分な仕上がりであろう。
 真紅の鉄橋を行く2000系を記録できた。
 橋本へ下る各駅停車のようである。
 そのまま橋の下を潜って、対岸に向かう。
 同時に南海アプリを確認し、そろそろ橋本に到着したであろう観光列車『天空』の動きを測った。
 まだまだ学文路にも到達していないようであった。安心安心。
 そのまま地図アプリを眺めていると、鉄橋をダイナミックに渡る姿を記録できる対岸に移動できるようだったので、もう少しの足の力を絞って移動する。
 にしても複雑で入り組んだ道中だ。

 そのままUの字に一気に迂回して、人道橋らしき道を渡って対岸に到着した。
 この丹生川橋梁は高野線随一の名刹として知られ、車窓の見所の1つに数えられている他、撮影の地としても大いなる人気を呼んでいる場所だ。
 しかしまさか1駅分近く歩くとは思ってもいなかった。
 丁度、地図アプリを見たところ自分の居る場所を見て唖然とした。
 もう既に高野下駅まであと少しと接近しているのであった…
 どれだけ歩いたんだ。そしてどんだけ険しく縫う山道を鉄道は走行しているんだ。
 改めて南海電鉄高野線となる全身の鉄路を敷設した明治の日本人に感謝と尊敬、そして現代に鉄道が通る安心の畏敬を込めて列車を待つ。
 踏切の無いヶ所なので、こういった場所では南海アプリを頼るのが1番だ。
 南海アプリでは南海の全線、列車が今どこを走行してどこに居るのかをしっかり示している。
 そんなアプリで動きを手繰った中で、1本の電車がやってきた。
 橋本方面に下山する2300系である。
 写真に撮影したのがそれに当たるのだが、折角ならば鉄橋と2300系の赤みを映えさせたいとの意識で、2300系は連結面を狙った。
 少し理想の切り位置とは違ってしまったが、2300系の赤く映える車体と高野線の山岳区間の険しさ。そして丹生川橋梁の美しさを同時にフレームの中に収める事ができた。
 引き続き、南海アプリを注視する。
 この列車は途中、九度山で極楽橋方面に向かう列車と行き違いをするようである。
 もう少し待機してその時を待とう。

躍動、ズームカー

 南海アプリで、列車が九度山を発車した事を確認する。
 しばらくすると耳の奥深くに列車の車輪が線路と軋み、金切り声のように聞こえる甲高い音が山の奥から聞こえてきた。
 九度山から山を登る2000系が鉄橋に差し掛かる。
 鉄橋には全体的に影が掛かっており、車両の全体を混ぜる事は不可能だったので鉄橋の根本で列車を捉えた。
 不気味なVVVFインバータの走行音が山中の奥深くにこだまする。
 撮影した記録では少しだけ切り位置に迷いが見えたのか後方が草木に入ってしまい、自分では少々迷いを残してしまった記録となった。
 偉大な名車たちが駆け抜けたこの地を、平成から次代を引き継いだ2000系がゆっくり、ゆっくりと走行していく。
 21000系たちが築き上げた都心へと向かう『広角・望遠』を示した大阪、なんば直通の時代は削減され時代の波風に晒されようとしている最中だが、こうして山岳区間を足を踏み締め走る2000系を見た時の安心感たるや。
 少しだけ気持ちの高揚を織り交ぜ、本命の列車を待機する。
 あと少しだけかかるようだ。

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