ACT.104『夕景』
韮崎の兄弟
韮崎中央公園に保存されている蒸気機関車、C12-5。
ちなみにこの公園には、貨物用の電気機関車
であるEF15-198も保存されているのだがEF15形電気機関車に関しては整備中だったので観察できずだった。その為、スルーして蒸気機関車の観察に向かっている。
この蒸気機関車は、後々に誕生する万能の中型機…小型テンダー蒸気機関車であるC56形の製造に繋がっていく大きな蒸気機関車であった。
この小型な形状に一手間の改良を加えて改良させた姿が、パワーと航続距離の持続に繋がったのである。
C12形蒸気機関車を見てみよう。
形状はD51形やC57形のように、決して大柄と言うわけでもなく控えめな姿をしているのが特徴だ。
石炭と水はテンダー・炭水車ではなく、機関車のキャブ後方にスペースを作って積載されている。
いわゆる分類での『タンク機関車』という種類に属する蒸気機関車である。石炭と水を1つの車体に搭載する事によって車体の大きさを軽量化させる事に成功し、大きさを小さく仕上げる事にも繋がった。
車両を見てみると、整備が決定し現在修復作業に入ったEF15形電気機関車以下の貨物列車と比較して、こちらはどうも疲れた見た目をしている。
車両に幾らでも接近し、好きに撮影できる事以外ではその点が見ていると切なくなると言おうか。
側面のナンバープレート付近を見てみても、塗装が剥がれたり錆の疲れた様子を覗かせたりと、決してその状態は良好と言えない。
この状態まで来れば、整備はそろそろだろうか。全国にはこの状態より更に悪化した状態の公園保存蒸気機関車も存在し、朽ち果てた状態をそのままにして解体されてしまう事も少なくはない。
そうした中で、電気機関車に連なる貨物列車のようにしてこの蒸気機関車の整備にもゆっくりと期待を送りたい。
韮崎市には地道な保存活動の足並みを歩んでほしいものだ。
付近にあるのは、こうした蒸気機関車の解説パネル。
C12-5に関して。蒸気機関車に関して。鉄道に蒸気動力が使われた始まりなど。記されている事はそこまで多くないような気がしてしまう。
自分以外にも、この場所を通りがかった親子がいたのだがその親子には
「なんでここにこの蒸気機関車いるのぉ?」
と子が母に問いかける顛末で、
「あぁ…情報が少ないんだなぁ」
と少し頭を抱えてしまった。
というか蒸気機関車が日本に伝来した過程が記されているという看板も中々ないだろう。
それでは、恒例の略歴追跡をしてみよう。看板にもあるとか言わないで
まず、C12-5は昭和8年に製造された。最初は宇都宮機関区に所属し活躍する。
昭和4年には桐生機関区へ。関東内での異動はこの辺りで終了しており、コレ以降は海を渡っての活躍となる。
昭和12年。苗穂機関区に転属した。
ここから北海道暮らしの始まりである。北海道暮らしでは最初の苗穂を翌年には離れている。昭和13年、遠軽機関区に転属した。翌年の昭和14年には中湧別駐泊所に向かう。そして昭和17年までを過ごした。
昭和14年には苫小牧に向かう。昭和26年までを過ごした。
昭和29年には蒸気機関車全国の名門、小樽築港機関区に転属する。小樽築港での転属が、最後の北海道暮らしとなった。
昭和30年。活躍開始の場所だった関東に近い甲信越に戻った。横川を本区とする軽井沢支区に配属されたのである。
昭和30年。この時に一旦保留車扱いを受ける。1ヶ月程度にて解除され、軽井沢支区を離れた。
昭和39年、軽井沢支区を離れて再び甲信越を転属。異動した先はこの保存場所の山梨県であった。
昭和44年。山梨県は甲府機関区に所属する。ここでようやくこの蒸気機関車と山梨県に接点が成立した。山梨はC12-5が最後の生涯を暮らした場所だったのである。
転属翌年。異動して早々ではあったが、昭和45年に廃車となった。
その後、C12-5は山梨県内の保存場所として甲府に近い韮崎市で保存となり、この今に至るのであった。
現在では、富士の麓に腰を下ろして快活に元気溌剌に外で身体を動かし汗を流す老若男女の姿を眺めている。
韮崎中央公園の奥に保存される公園もう1つのシンボルは、今日も清涼な富士の風を浴びて長く広大な日本中を駆け回った余生を回想している事だろう。
兄貴と弟(小淵沢からの便りを背負って)
ある意味で、このC12形蒸気機関車は兄貴分のような存在かもしれない。
と、こうして記すのは何度も残しているがテンダー式機関車のC56形の土台となっているからだ。ここでは本格的に見ていこう。
改めて、形式の写真として記録したこの1枚を使ってこの蒸気機関車を見ていく。
C12形蒸気機関車は、昭和初期に迎えた経済不況の中で簡易線・ローカル線の専用蒸気として製造された小形の蒸気機関車である。その姿は経済性を重視しており、国鉄の本線用国産蒸気機関車の中では最も小さな車体であるのが特徴だ。
写真は、北杜市の小淵沢小学校で撮影した(同日行程上)C56形蒸気機関車だ。
このC56形蒸気機関車。よく見ると、等身。そして目線を同じにして眺めてみるとC12形蒸気機関車にそっくりなのである。
違いとしては、本当に航続距離の持続を狙ってテンダー車を繋げただけ…のようなものであり、実際に部品の1つ1つは共通化されている。
こうした事情は正しく日本鉄道界において『兄弟機』として誕生した歴史と見て差し支えはないだろう。
細かな装備などを除外すれば、完全に『同じ』蒸気機関車である。
ここに北杜市は小淵沢小学校で撮影したC56-126を比較で置いた事で、まるで『間違い探し』のようにしてこの2つの機関車の写真を見ていただけると感じている。
実際、C56形蒸気機関車が復活運転し本繊に戻った大井川鐵道では、C56形の復活運転に際してC12形のボイラーを搭載して本線に復帰させる事に成功している。
これもまた、部品共通化の賜物であると言って良いだろう。
模型を並べると完全に同じ…兄弟としての見た目が如実に出てくるところではあるが、残念ながらこのC12形蒸気機関車もC56形蒸気機関車も模型を保有していないので比較撮影が出来ないのは非常に惜しいところだ。
実際に比較写真を撮影する…よりも手っ取り早い方法が、設計図を並べて見る事である。
設計図だけでこの蒸気機関車を互いに見ると、あまりにも画一化され。テンダー以外は完全に同一に設計されたという言葉の証拠を強く感じる。
本線向け蒸気機関車として、限界までの小ささを目指したC12形蒸気機関車。
この背後に、更なる航続距離の持続と転車台の不必要な折り返しなどを狙って手軽な設計変更を追加したC56形の設計は、ファインプレーであったように思う。
テンダーを装着して石炭と水を別積載した事によって力が強化され、蒸気機関車としても大きな飛躍を遂げた。
小形設計の力を最大限に発揮し、国土の狭い日本で生き抜く確かな術を切り拓いた蒸気機関車のように思う。
背負う疲労
何度も記しているように、韮崎中央公園に保存される鉄道車両の中で。C12-5は脇役…という程でもないがかなり小さな端役に収まっているように思う。
整備が離れた蒸気機関車の背からは、剥げた塗膜に錆びたロッド類。そして長く戦った風雨の跡が濃く出ている。
全国にSLブームの息高く保存された蒸気機関車の中で、長い整備と充実した環境を手にできる幸運な蒸気機関車は、ほんの一握りである。
写真は、後方に回ってC12-5を撮影したもの。
小柄なその背からは、蒸気機関車の持つ迫力とは別に草臥れた月日への回想も見える。
小ささの限界を目指し、切り詰めた車体に水と石炭の場所を確保した車体は哀愁以上のモノを放っていた。
そして、こちら側の前照灯には何故か蓋が被さっている。コレは一体…
夕暮れの訪問だったので、蒸気機関車の周辺からは少し冷たい空気が漂っていた。
山梨では訪問した折に桜も開花していたのだが、この公園ではまだまだ先に花が咲き誇るようである。
しかし、蒸気機関車の撮影ロケーションとしてこれ以上に自分の「来て良かった」を満たし充填してくれる場所は稀に無いように思う。
最近は自分の思ったような車両たち、そして幼少期からの図鑑を飾った車両たちも次々引退し失脚していく中で、新たに見つけし保存車の世界。
自分が求めていたアドレナリンとは。脳への刺激とはこうしたものだったんだなぁと韮崎市は背中を押してくれたような気がする。
自分の脳活性化としての訪問に、この場所は非常によく効いた。
道を歩いていて、不意によく効く万能の薬を頂いたような気持ちになった。
脳内優柔
上りがあれば、下りがある。
帰りは夕食の確保ついでに元来た道を完全に戻らず、韮崎駅に向かうか。それとも道を完全に同一にして新府駅に向かうか。撮影しつつ。曇り空の中に消える陽を眺めつつ、思索と戦った。
「そっかぁ、韮崎駅に向かえばローソンで少し食えるしほんで夕食にバーミヤンが…、ってか韮崎駅発展してんだな意外に。」
端末アプリの地図を起動し、韮崎に戻れば食糧が多く手に入る事実に気づく。そして夕食も済ませて
次の宿泊地に向かえる。
しかし、韮崎駅に向かうのは新府駅と比較して数分ないし数十分の差があったのだ。(少し記憶がない)
「そっかぁ、新府の方が近かったのかぁ…」
結局、公園内を移動中にも思索しており中々動き出せなかった。
そして、ようやくの思いで決定。富士山を見つつ、気持ちが固まらず。捻った解答として
「もう新府にするか、迷って困ると嫌やし」
優柔不断をどうにか振り切って、新府駅に向かう段取りを脳で組み立てていく。
「あんまりにも怖かったし(行けるか)またマップ出そ…」
無事に日没には間に合った。
韮崎中央公園を離れて、中央本線は新府駅に向かう。
今度は富士山を背にしての上り坂で韮崎中央公園を離れる。
また次、電気機関車の編成列の整備が終わった夏に再訪問をしようと決めたのだった。
帰り道の中で、枯渇したドリンクを補充する。山梨県はハッピードリンクショップの影響か割りかし多くの自販機を見かける。
「ようやくやなぁ…」
この日の暑さは学ランに対して計り知れないものだった。こんな暑さなら夏服仕様にすれば良かった。
歩いて移動する最中の中、気になったジュースを買う事にした。行きで見つけた自販機に寄る。
「パインアメサイダーかぁ、こんな場所にもあるなんて思わなんだな、買うかぁ」
普段、通勤時に遭遇する自販機にもこの『パインアメサイダー』がラインナップされているのだ。
遭遇したなら、買うしかない。丁度今がその時だろうと。
実際にジュースとして飲んだ感触としては、刺激と甘味。そして爽やかな酸味が喉を突いてくる。
「なんでもっと早くに買わなかったんだか…」
飲んですぐに減っていく。かなりの美味さだった。
そして、丁度服薬の時間になったので薬もパインアメサイダーで流し込む。
発達との付き合いもかなりの年月になり、薬生活も慣れたが最近ではもうジュースで流し込んでも違和感すら感じなくなった。
既に日暮れはかなりの時間に差し掛かっている。
自分が韮崎中央公園を出て駅に戻ろうと決意した段階で、かなりの日差しの向きだった。
あまり見ないものを発見したので撮影。
火の見櫓だろうか。どれだけ朽ち果てようと、地域の安全に防災を守る大事なシンボルだ。
敬意も感じつつ、撮影。
「まだこんな場所に来れば、残ってんだなぁ…」
ボンヤリ思ってシャッターを切る。
周辺の住宅は近代的な見た目のモノもあるが、時々こうして懐かしい風景が覗かせる。
令和になろうと、日本探せば昭和は案外簡単に転がっているのだろうか。
時々迷ったような気がする。
あまりこうして複雑に入り組んだ道は、旅先の移動でもあまり慣れない。
現代社会の中、今は端末さえひらけばマップとして幾らでも自分の位置を確認可能だがきっと昔なら直感で解決しただろう。
結局、新府駅に到着したのは日没後だった。
駅のホームらしき高台が見えた瞬間、どれだけの安心を感じた事だろうか。
行きで到達したように、長い高台への階段を上って列車を待機する。
再び甲府に戻って、旅は仕切り直しだ。
切り裂く帳
中央本線・新府駅。
この駅は、無人駅としてホームが対向式に向かい合わせに設置され、ただ列車が通過し。そして簡易的な放送によって列車の見送りをしている山の中の小さな駅だ。
既に日没の中、列車の音がなければ静寂の壁に囲まれる。乗車予定の列車にはどうにか間に合った。
この次の列車で甲府に向かうと、時間は更に遅くなる。
列車の接近放送が鳴動した。
「ん?早いな…もうそんな時間やったっけか。」
闇を切り裂く走行音に耳を傾ける。
やってきたのは、甲信越と東京都心を結ぶ伝統と瞬足のスプリンター、E353系特急/あずさであった。
「一応撮影だけはしておこうか…」
既に暗くなった新府駅のホーム。どうせ列車の通過する時のハイビームでシャッターは稼げるからと楽観し、そのまま通過を捉える。
風を切り裂き、新宿へと急ぐ蛍光灯の矢のような景色が山の中に吸い込まれていった。
車輪の打ち付ける音が消え、再び静寂の時間が新府駅に流れた。
しばらくして、松本方面の放送が鳴動した。
次は電球色の前照灯が光っているのが見える。
鈍くて重いモーターサウンドが聞こえ、列車はゆっくりゆっくりと速度を落としていく。
そして
『キュイイっ』
と踏み締めるような音を鳴らして、ブレーキをかけ停車した。
しかし、こちらの松本方面に向かう列車は新府駅での降車がないようで静かな停車時間となった。
列車にとっては、小休止の意味合いが強そうだ。
こうした各駅に停車し、山の中をゆっくりゆっくりと進んでいくのが、中央本線の普通列車に任ぜられた仕事である。
と松本方面の列車がやってきたのを確認すると、再びこちらにも接近放送が鳴動した。
まさかの新府駅で互いの方面の列車が行き違うようになるらしい。
松本方面への列車と甲府方面への列車が互いに挨拶をするようにすれ違う。
列車の前照灯で光を稼いだのは勿論…として、この場合は対向列車の室内灯も利用して撮影する。
山の中で行き違う普通列車の闇夜での活躍をなんとか記録できたように思う。
この普通列車に乗車して、甲府に戻る事にする。車内は、相変わらず誰も乗っていない状態だった。
扉を車両のボタンで開けて車内に入る。
電球色の明かりに照らされた室内灯の中で広がるロングシートに腰掛け、ドシッと座席に体重を預ける。
発車メロディが響き、列車は動き出した。
新府駅の簡素な構造が遠ざかってゆく車窓を見ると、
「長い道のりだったなぁ」
なんて思ってしまう。ようやく夜を迎える体制を整えた。
最後の経由地
列車は新府を出ると、韮崎・塩崎・竜王…の順に停車し、18時30分頃に甲府に到着した。
「あぁ、売り切れとるなぁ…まぁ特急の停まる起点的な駅やししゃーないか。」
所持金にかなりの余裕があった事…そして、駅改札内での弁当販売があった事。また、次の目的地に向かう為の普通列車でボックスシート車両を引けるように…などを思って、この甲府では下車後に弁当を買おうと思っていたのだ。
しかし、全ての種類の弁当が1つ残らず完売してしまった。
「んま〜、こればっかりは。ま、山梨県で食うもん食ったし、アレにするかぁ」
割り切って、改札の外に出る。
甲府駅のガラス張りの駅務員室、この旅で何度通ったろうか。
ちなみに写真は、旅路で少し気になっていた竜王行きの特急/かいじ。ホントに走ってるんだ。
甲府に下車し、発車標を見て記念にと思い、撮影の記録を残した。
流石はサッカーの都市、甲府市。
Jリーグチームヴァンフォーレ甲府の試合開催に対応した発車標が用意されていた。
この日はレノファ山口を本拠地に迎えての試合だったようで、甲府駅には多くのサポーターが
集結していた。
また、案内スタッフやサッカー関係の乗客も多くこの日は見たような記憶である。
昼時のバスも、多くのサッカー観戦客を乗せて駅とスタジアムを往復しているのを見た。
発車標、その2。
レノファ山口…の部分がスクロールしていくと、次はこの表示が出てくるのだ。
ちなみにこの日折角立ち会ったからという事で後に試合結果を調べたところ、0-2で山口が勝利し、甲府は負けを喫したようである。
発車標には19時40分発の大月行き普通列車が表示されている。
この列車に乗車して、自分は山梨の中心である甲府を去る事になる。
この甲府を拠点にして、多くの思い出を授かった。
充電時間
甲府の駅に降車し、乾電池式の充電器を少しだけ補填しておこうという事で、駅の中に入居している100均に向かった。
充電器と単3の乾電池パックを買う。
しかし思ったよりは乾電池充電器の世話にならず、次回以降に回す事にした。
そして、この旅で腹拵えをしなくては。
既に名物の『ほうとう』は食したし、もう名物の食事に思い残すことはない。その中で選んだのは…
雰囲気も何もかも捨てて、吉野家で定食。
関西でも日々注文しているメニューを胃のなかに充填し、次の場所に向かう前の備えをする。
店内は、夕食を食べようと集った地元の人々で盛況だった。チェーン店ではあったが、甲府で暮らす住人の生活を垣間見たような気持ちにさせられる。
結局、この吉野家では野球部の食トレの如く、並ご飯を3杯おかわりした。
運動部経験はないし、胃腸もそこまで強くはないのだが、完全にここまで食っていなかった分のツケ…のようなものとして。この場所で多くの米をかきこんだ。
駅弁代の1,000円近い代償に比較して安くは済んだものの、どうにかして元を取ろうと必死なのであった。
次の場所
胃の中が重たくなり、走ればすぐに腹が蹴られるような痛みを感じる中。
無事に甲府から大月行きの列車に間に合った。
車内はまだ空いている。
自分が乗車した時点ではボックスが数席埋まる程度であったが、少しづつ車内には活気も生まれてきた。
しばらくすると、発車メロディが響く。
「ドアが閉まります、ご注意ください…」
プシッ、と古い車両ならではのドアを閉める音を残して、ドアが閉まる。
グググググッ…と重い足取りで甲府を出発する。
旅は後半戦に入っていった。
乗車した車両がボックス座席だったので、駅弁があれば…と本格的に後悔しつつの甲府の旅立ちであった。