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ACT.122『さらば、山岳よ』

終端の顔ぶれ

 何度もここまでの連載で記したように、橋本から極楽橋までの区間というのは関西私鉄屈指の難所であり、50‰…すなわち、
『1000メートル進む毎に50メートルの勾配差が生まれる』
区間の連続である。
 そんな区間の終端は、こうして行き止まりの構造になっており、鉄道ファンや高野山への参詣客たちの記念撮影が出来る場所にもなっている。
 今回の冒頭の写真は、そんな記念撮影の可能な場所から撮影した天空×こうやの写真からスタートだ。
 この写真の構図にて、南海21000系×南海20000系という往年のクラシックな共演もかつての文献で見た事がある。
 が、この並びは15年前の平成21年に始まって以来ここまで変わらずにやってきた。
 そろそろ右側の特急『こうや』に関しては車齢的にも限界が差し迫っているであろうが、いつまでこの山上に姿を現せるであろうか。

 少しだけ、比較をしておこう。
 南海高野線の特急には2種類存在している。11000系も存在しているが、今回は『大運転』で橋本より先の山岳線に対応した2種類に限定して話を少しだけ記していく。
 左に停車している角度を付けた先頭の形状を持つのが、30000系である。
 昭和後期に誕生した車両であり、もう少しで40年選手へ差し掛かろうとしている『ベテラン』領域の車両である。
 対するは右に停車している31000系。
 こちらは貫通形状となっている先頭車両が特徴的になっており、少しだけ傾斜は描いているものの幌枠を取り付けているのが特徴である。
 車両は平成10年代に誕生し、それでも30000系とは10年ないし20年程度の車齢差が広がっている。
 かつてはこの貫通幌を利用して11000系との併結運用も実施していたのだが現在は廃止され貫通幌・幌枠の利用機会は壊滅したと言っても良い。
 互いの妙味を持つ車両の差異は、こうして駅に停車して並んだ時に面白く見えるものである。
 皆さんも是非、極楽橋に下車した際にはこのような並びの写真を撮影して互いの差を独自に見比べても面白いのではないだろうか。

復帰を掴んだ者

 前回記事に戻って、ここからは下山する列車に選択した観光列車『天空』に乗車していく…前の段階。
 列車の解説を少しだけ挿入しておこうと思う。
 その前に。貫通の先頭形状を持つ31000系とツーショットを撮影しておこう。
 もうこの山岳区間に入ってから、南海らしい色ではなくこちらの両者が使用している『赤』の方がすっかり見慣れてしまった。
 それはそれで高野線の個性なのだから全く気にしないのだが。

 前回の記事で記したのだが、この南海2200系『天空』はかつて多奈川線を中心に支線で余生を暮らしていた車両である。
 しかし、15年前の平成21年に再び古巣であるこの高野線山岳区間への復帰を命じられ現在の職に就いている。
 この『天空』の特徴はなんと言ってもその車体色にあり、そして写真にも見えている展望のデッキにあるだろう。まさかドアを潰してその部分に開閉式(実はドアで塞ぐ事も可能)の風を吹き通すギミックを搭載するなんて誰が想像出来たろうか。
 この工夫が鉄道の世界に導入されてから10年近い歳月が経過しているというのは何となく自分の中で未だに信じがたいものがある…が、それだけ長い期間この列車が愛され、観光列車としての古巣復職の歴史を刻んできたという事であろう。
 『天空』の車体色である緑と赤は
・緑…高野線山岳区間の森林をイメージ
・赤…高野山の根本大塔
として、互いに意味が込められている。
 山深い大地を進み、そして真言宗の聖地に向かって乗客を送り出すのにはこれ以上ない配色といったところか。

 少しだけ、車内を撮影する事もできたので掲載する。
 車内はかつての通勤電車時代と比較して完全に変貌し、列車のコンセプトである
『俗世界から、精神世界へ』
のイメージが車両に大きく反映されている。
 そして写真の中でも少し目立つ装備になっていると思う…のだが、赤みがかった座席。ピンクの部分に関しては車両の中でも工夫されたヶ所となっており、この部分だけは
『ワンビュー座席』
として眺望に大きく配慮した特別な座席となっている。
 但し、この『天空』の座席はそれぞれ指定して乗車する事が出来ないようであり、視界の良い席を引けるかは運次第になっているのだそう。

新旧共演

 実はこの『天空』。既に1時間以上前には到着しており、長い時間で車両の観察が出来る状況であった。
 この写真には、『天空』の特徴である展望デッキ。そして2200系の個性として。2200系のパワーを記す意味で記されている
『zoom car』
のロゴがなされている。
 このロゴが個人的に『天空』を見届けた中で一番の気に入りポイントであり、関西大手私鉄の中でも車両に呼称された渾名を個性として尊重し大事にしているその空気を感じる事が出来るのである。
 そして、写真の奥をご覧頂きたい。
 何処か見慣れた車両が連結されているのが分かるだろうか?

 あの角形ライトで分かった方。
 実に素晴らしい観察眼でございます。
 そう、橋本の側には2000系が連結されているのだ。
 21000系たちのズームカーファミリーが失脚した際、同時にVVVFインバータを搭載する車両として高野線山岳区間。そして南海に登場したこの車両が、『天空』の橋本側に連結されているのである。
 高野線山岳区間をイメージした緑の塗装と2000系の特徴である銀色の組み合わせが対照的で面白い。
 この2000系を連結して走行する事情には、保安設備の理由が関係しているようだ。
 2000系の併結が絶対原則となっている『天空』だが、同時に性能の近い2300系でもこの相方としての併結が可能になっている。

 『天空』の見所となっている展望デッキ部分と2000系の共演。
 2000系は路線の保安設備としての役割を任ぜられている他、『天空』の接客設備として自由席車両の役割にも貢献している。
 抵抗制御の2200系と、力強い重低音の前衛的な加速音を奏でる2000系。
 どちらに乗車するか、鉄道に造詣のある方や知識をお持ちの方には非常に迷う選択となるのではないだろうか。

さらば、山岳

 天空の自由席車として接客に帯同する2000系には、専用の方向幕が設定されている。
 同じフォントを採用し、同じフォントで(自由席車)の文字が添えられ列車の世界観をそのまま継続している。
 自分はこの自由席車に乗車して、そのまま下山する事にした。
 16時丁度の発車、天空最終便。
 フリー乗車券での旅路だったので折角ならばと指定席も考えたが、そのまま購入に挫折してしまい自由席に転がり込んだ。

 自由席車といっても、決定的な差はやはり
・普通の通勤電車が連結されている
という点でしかないだろう。
 保安上の理由
 として併結されているこの貫通幌を潜ると、それだけで世界が大きく変貌してしまうのがこの格差である。
 自由席車の2000系に乗車し、ベンチのように広がるロングシートに転がり込む。
 そのまま着席し、橋本から上った道のりの疲労を身体から座席に溶かすようにして寛いだ。
 少し寝ぼけ眼になっていると、自分の近くに続々と乗客が入ってきた。ケーブルが到着し、そのまま下山するようである。
 自由席車として運用されていると知り、そのまま流れ込んできたのだろう。
 列車の間隔が少ない中を縫って、そのまま途中停車駅を削減した乗車券で乗れる優等列車の役割も兼ねているのは非常に面白い。
 そのまま眠りの狭間に落ちていると
「皆さま、本日は南海電鉄天空を…」
と機械の自動音声と違って温かい肉声の車内放送が聞こえてきた。
 専用のアテンダントによる車内放送のようだ。
 自由席車としてお溢れに預かっても、車内放送だけで観光列車の気分を体感できるのは非常に面白い。
 そして、列車は高野山からケーブルで乗り継いだ乗客たちを満載して扉を閉め、そのまま下っていった。
 2000系の個性である重低音を効かせた加速音が車内に響き渡る。
「皆さま、お待たせいたしました。本日は、南海電鉄天空を…」
の観光列車ならではな特別放送が呼応し、普段のロングシート広がる通勤電車の車内が特別な空気に変貌する。
 しかし、そんな特別な演出も疲労困憊した自分には安らぎの子守唄のように浸透し、そのまま紀伊神谷通過の様子を見届けて寝落ちしてしまった。
 下山し、意識が戻った時には始発点の橋本。
 どれだけ寝込んでいたのだろう。
 全く何も感じる事なく、自由席車で意識が飛んだ状態でタイムリープも同然、始発点に戻ってしまった。
 これなら自由席車で良かったのではないだろうか。
 そんな事も考えてしまった。

 自分の疲労はそのまま橋本より先でも続き、乗換えたなんば行きの急行でもとんでもない速さで寝込んでいた。
 起きたら今宮戎すら通過し、そのままなんばへ。どれだけ体力を削っていたのだろう。
 しかしそのまま、切符の効力を活かす旅へ。
 晩ご飯を食べに本線の列車に乗車すべくの移動を開始し、山岳旅の時間は呆気なく終幕したのであった。

おまけ 成仏の日

 そのまま、下車した高野線ホームで発車標を確認すると
・泉北ライナー
の文字が見えたので撮影に待機する。
 何度もデザインを変え、泉北高速鉄道と南海を行き来する11000系がやってきた。
 自分が旅に出たこの日は、南海にとって重要な…いや、大阪に残された若鷹のファンにとって記念すべき日になった1日でもあった。
 それが、
・福岡ソフトバンクホークスの優勝である。
 しかも、その優勝を大阪で決めたのであった。
 大阪で決めるホークスの優勝、というのは遡ればダイエーに旅立つ昭和50年代60年代より前。
 昭和30年代の高度経済成長、パ・リーグの黄金時代にまで遡る。
 この頃、親分こと鶴岡監督の指揮によって錚々たるメンバーがチーム内で躍動、現在のホークスの礎である
・南海ホークス
が大阪球場で華々しい優勝を本拠地で飾ったのであった。

 現在は平成元年に身売りされて以降、大阪球場の跡地はショッピングモールである『なんばパークス』に姿を変えた。
 ホークスの大阪優勝という記念に浸ろうかとパークスへの寄り道も考えたが、乗車券の効力を優先してそのまま本線に乗車して次の目的に向かったのである。
 南海からダイエーの過渡期には成績も振るわず。そして人気は阪神一強によって関西からの撤退を余儀なくされた経験を持つ往時からの南海沿線でホークスを見届けてきたファンにとっては、この優勝はとてつもなく大きい財産として。とてつもなく大きい功績として成仏には充分だったのではないだろうか。

最後に

 と、最後にはこんなオマケの話を。
 9月にこの旅をしていたのに、書き終わりは12月。
 自分のサボり癖が全て悪いのですが…
 しかしながら、ここまでずっと経過を追跡し。そして♡マークを押してくださった読者の皆さまには感謝です。
 ですが。
 このまま休まず次回の内容に突き進んで行きます。
 年内完結にまずは安堵…

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