希うもの
何年ぶりだろうか。
若草と緑の2色塗りとなった京阪旧一般色が凱旋してきた。
2200系の営業開始60周年を祝しての復活となり、沿線は現在歓喜に沸いているところである。
京阪の各駅停車・準優等列車の塗装はやはりこの色でなくてはならない。平成10年代に生まれた自分にとっての脳内不変なイメージであり、いつも母親に連れられ三条駅の地下に向かうとこの2色塗りの電車が停車していた。
もうその思い出も10年以上前だ。自分が小学生の頃の話になる。
そんな2200系旧塗装車両。
再会の駅となったのは中書島であった。
この駅まで先回りすれば丁度良い時間に遭遇する…との事で、10分近く待っての到着となった。
自分の中で、京阪一般旧塗装を最後に見たのは小学6年生の頃。
学校の遠足の時、帰り道に乗車した特急が守口市で追い抜いたのが一般旧塗装の電車で、この2色塗りの車両だった。
さて、中書島での再会に話を戻していこう。
ネットで充当運用を確認し、駅の待合室で涼んで自分はその時を今か今かと待機していた。
そして時間になり、ホームに繰り出す。
再会したその瞬間の写真が、この写真だ。
懐かしの気持ちが。自分の抑えられない感動が瞬間的に自分を覆った。
「おかえり…!」
その気持ちはどうにか堰き止める事が出来たが、本当にその瞬間の言葉はどうにも表せないものだった。
駅で扉を開けている一瞬の時間を、乗車前に膝を屈めて撮影した。
切り抜きの車両番号に、若草の色の中に映える準急幕。
これだ。そう。この色なんだよ。
自分の気持ちが瞬間的に高揚した。
本当にこの一瞬だけでも、京阪が相当の心血を注いでこの2色塗りを復活させた事が見て取れる。
自分の中で。少年の頃に伏見区へ移動する時の移動手段として存在している京阪電車はやはりこの色なのだ。
この色の電車に乗車して、青少年科学センターや陶芸教室に行った事がじんわりと思い出に浮かんできた。
ただし。これで感動するにはまだ早かったのである。
伏見桃山に停車し、丹波橋で特急を待避する。
その際に車両をじっくり見ていく事にした。
車両のレイアウトの下に見える検査の表記。
コレもかつての京阪電車ならではのものである。
この復活ではダミーの検査表記として復活し、車両形式の2200が番号として振られているだけになっているが、この復活には熱い感動を覚えるものだ。
しかし、感動をここで感じるのにはまだ早い。
車体下部のマークを見てほしい。
大阪を示すマーク、澪標を円形状に並べたものだ。
シックな色合いに映えるこのマークこそ、やはり京阪電車なのである。
このマークの復活を見た瞬間、本当に
「あの頃の京阪電車が帰ってきたんだ…!」
という正夢のようなものを一瞬で感じ取る事ができた。
60周年という事に於けるリバイバルの復活となったが、まさかここまでの力の入れ方とは想像もしていない事であった。
思い出の炎が熱く燃え盛ろうとしている。
今ではこの若草と深緑の旧塗装から相当な年月の経過として、それを知らない出来事や思い出の増加。そしてその時代を知らない少年や若者も増加している。
一体この色と澪標の円形マークを見て、少年たちはどのような印象を受けているのだろうか。
待避の最中、偶然にも乗車位置が後方寄りだったので車両最後部まで移動できた。
いやぁ、これなんだよ。これ。
あまりにも感じる実家のような感動に、自分の心は抑えられない。
前面の車両番号切り抜きが少し小さめ…というのが再現にあたっての少々の違和感であろう。
最初は
「塗り分け位置がズレた??」
と思っていたが、どうやらそうではないようで安心した。
新塗装に新時代も全盛期の中。
そして令和として年号は切り替わり、情報や人々も新たな洪水の中に埋もれていく中で、よく本当にこの塗装が復活した。
自分は奇跡を見ているのだろうか。
これが正夢だという事実が、信じられない。
再び、澪標の旧社紋を見届けて車内に戻った。
旅路の再開である。
やはり京阪の旧型車両には、問答無用にしてこの塗装が非常に似合っている。
少年時代はどうしても特急利用が多かった自分の家。そしてそこまで京阪に乗車する縁ではなかったので、この色から生活の馴染みは感じないのだが特別な思いが胸を伝ってくるのは間違いない事実だ。
少年の頃に見ていたであろう景色が再び帰ってきた。何度も同じような事を綴っている…ように感じるかもしれないが、本当にその思いが尽きないのである。
駅名標はかつて(この場合だと)『たんばばし』と大きく表記されただけのシンプルな表示だったが、自分がはじめて京阪に乗車した時の記憶は奇しくもこの駅名標だった。
偶然にも、自分の知る時代が帰ってきたのである。
ここで少し離れるとして、ここまで纏ってきた新塗装の2200系を掲載しよう。
自分が活動性を持ち、1人で様々な私鉄を巡って越県する頃には、2200系を始めとする京阪一般車両たちは全てこの塗装になっていたのである。大津線は除外するとして。
なので、自分にとっては何年間も
「あぁ、あの幼少期に見た京阪電車が本線をカッ飛ばすのが見てぇなぁ」
と、ずっと希ったものだった。
遂に結実した時、自分の気持ちには
「まさか本当に実現するとは」
の驚愕の方が強かった。
実際に出会った瞬間は、言葉にもならない。
むしろ、良いのだろうか。
60年も走る、というのは並大抵の電車では実現できない。
人間で言えば還暦となり、祝福だって受ける頃だ。
この話を自分の身近な人にすると
「あの電車そない長生きしたんか?!」
とそちらに驚かれた。
鉄道に全く執着心や感動を持たない人にとっては、先にそちらがインパクトを打つのだと少々面白かったものである。
話を戻して、2200系復活の旧塗装。
乗車していると、
「この2色が遠ざかっている間に色んな事があったんだなぁ」
と脳内が走馬灯のように何かを照らしていた。
人々が情報の波を手にしてあらゆる手段から世の中を俯瞰するようになり、そして家族世代も次々と減少し、疫病が流行した後に現在の外国人が沢山流入する国になった。
勿論、元号が変化した事は最も忘れてはならない事象である。
中之島線開業という大阪都市圏に於ける革命的な出来事からは、もう15年近い時間が経過した。
結果として、ここまでの荒廃を見せ。衰退していくようになるとは考えもしていなかったのだが。
深草付近で乗車したスポーツTシャツの女学生たちが、
「なんや全然中は変わらへんねんなぁ」
と話をしていた。
そうか。今の高校生たちはこの2色塗りの時代を知らないのか。
そう考えるだけで、少し勝手な大人のような気持ちになってしまうのである。
中之島線開業の時代に少年だった人たちは、もう立派な社会人だ。
それならこの色味の電車を触れた経験がないのも無理はない話である。
女学生たちの着用しているスポーツTシャツを眺めていると、多くの学校の名前が刻まれていた。
大会の記念品だったりするのだろうか。
その中に、自分の母校の名前が入っていた。
「この頃から、純粋に鉄道が大好きだったんだよなぁ…」
勝手に乗客の背を見ているだけなのに、何故か心を打たれる。
少年の頃に失った景色と共に、少年だった頃の自分の記憶まで一気に引き出されそうになる。
小学生の頃、親に連れられワクワクして京阪電車に乗車するときに三条駅に停車していた若草色の電車。
一気に母校の文字を見ただけで、水に浮かぶインクのように思い出がぶり返す。
少年の自分にとって、旅をする習慣のなかった家族。生活圏だけで完結してしまう家族の中の微々たる記憶といえば、普段は乗車しない鉄道に乗車したり。祖父の軽トラの助手席だったりと思い出は本当に少ない。
ただ、自分の中では一時的にこの若草の塗装が鮮烈に少年であった頃の我が胸を打ったのは未だに忘れられない。
そして写真。
三条からなので大阪方面に向かう為、番線は違えどこの景色は少年だった頃の自分が見ていたものと大体同じだった。
特急に道を譲る為に、先に一般車が停車して道を譲ってゆく。
この景色が自分の網膜に飛び込んだ瞬間、一気に何か目覚めるとでも言おうか不思議な感覚になってしまった。
「何処か、夢の中を歩き彷徨っているのだろうか?」
という気持ちにもさせられる。
にしても、ただ塗ってしまっただけなので多少時代錯誤を起こしてしまう部分があるとはいえ。よくここまで再現を起こせたと思う。
ただの塗装だけであっても、こんなに自分の心をグサグサと指していくのか。
三条駅で下車し、女学生のTシャツに刻まれた母校の名前を脳内に刻んで反芻しつつ、旧塗装全盛であった小学生時代を重ねて再び考えた。
あの頃はとにかく周囲も知らず一心不乱に駆け抜けたのは今でもしっかり忘れていないが、その一部がこうして浮かび上がるとどうにも言葉にするのが複雑な思いに駆られるものだ。
2200系を取り巻く周辺は、周辺を走行する車両たちを見てもしっかりと反映されている。
特に、この写真で起きている景色なんて一般車が若草色だった時期には考えられないモノだった。
少年期の自分にとっては
「京阪特急は座席料金のかからない普段着の姿」
として、カーマインレッド×マンダリンオレンジの2色の車両を見て考え、
「乗ってみたいもんだ」
と憧れを馳せる存在であったのには変わらない。
しかし、更にその上の高嶺の花に駆け上がった京阪特急の姿は、何処となく切なさを思わせ。
「あの憧れた姿は帰ってこないのだなぁ」
という儚ささえ引き出している。
金色の扉に浮かぶ鳩マークの輝きは、自分の中で若草色と共に見てしまうと切なさを倍加させる特殊な存在だ。
この写真を何回か見つめ直して、
「あぁ、正夢なんだ」
と自分の魂に問うている。
「ありがとう」
の感謝以上の心…ではないが
「よくこの世に、苦難を乗り越えた先にこの2色が帰ってきたものだ」
と心を打ちつけるには十分すぎた。
発車メロディが鳴り、リバイバル塗装の車両は最後の一息として出町柳に出発していく時間になった。
何人かの人々が懐かしさに、久しぶりの再会を喜んでいたようだが映り込んだ少年に、自分は複雑な思いを抱く。
「少年は、この色が全盛期だった頃。中之島に京阪が伸びるなんて想像だにしなかった都市伝説的な時代も知らないんだろうなぁ」
と。
今の京阪電車を眺めていると、少年たちの知らない情景はどんどん増えていった。
若草色の2色塗り以上に変化したこの時代。
少年たちはどのようなイメージを京阪電車に抱いて育っていくのだろう。
そんな事を思いながら、感謝の気持ちも携えながら、三条駅を後にした。
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