私がフリーランスカメラマンになるまでの話vol2 スタジオマン編
1991年は俗に言うバブル崩壊の年で、ニュースでは銀行が危ないぞ!
貸し剝がしだ!、破綻だ破綻だ!
と大人たちが大いに騒いでしました。
景気の悪化は免れず、今回のコロナ禍の様な様相でした。
いや、今よりも景気がそもそも異常に良かった分、
落胆は激しかったのではないでしょうか。。
そんな中、ちょっと世間とズレた生活をしていた私は
ぼんやりその様子を眺めるくらいでした。
しかし、選挙権が与えられた二十歳に成った頃、
流石に私もこのままで大丈夫かな?と思うようになりました。
写真はポチポチ撮ってはいるが何か形になるものでも無いし、
発表するでもない。。
当時はSNSどころか携帯電話もない時代です。
ちょっと浮世離れした生活をしていた私にはなんのアイデアも浮かびません。
そこで専門学校時代の友達に連絡をして皆んなどうしているのか聞いてみました。
すると大体は出版社のスタジオか先生に弟子入りするか、
レンタルスタジオで働くということなのです。
初めて聞いたレンタルスタジオなる名前。
なんぞやと思い本を買って調べたら、
色々なカメラマンが様々な撮影で使うスタジオなそうな。
なにやら面白そう!
とりあえず本に載っていたスタジオに片っ端から電話して数社から面接のアポを取り付けました。
その中から当時出来たばかりの中目黒のスタジオに無事採用され
いよいよ「プロへの登竜門」スタジオマン時代の幕開けです。
初めてのプロの現場です。
今までの勝手気ままな生活の様には行きません。
ミスは許されません。
スタジオマンの仕事は、
スタジオの清掃とお迎えの準備に始まり、カメラマンの補助、洋服のアイロンがけ、コーヒーや弁当の手配、ライティング等撮影セットの設営、
時には子守、などなど撮影現場に関わる事全般の下働きです。
スタジオを使う側になって分かったのですが、
スタジオマンは実はとても大事な仕事で、
使えないスタジオマンだと撮影現場の空気が重くなったりすることもあるくらいです。
そして、生まれて初めて先輩と担当したスタジオが中山美穂さんの撮影現場!
当時めちゃめちゃ人気の女優さんでした。
実物のあまりの可愛さにど緊張してただ見惚れて、
結局何もできなかったのを覚えています。
全然ダメダメです。。。私。。。
そんな初日から二年半。
自分なりに頑張ってサブチーフにまで成れました。
私がスタジオマンとして常に気をつけていたことは、
「自分がカメラマンなら何をしてもらったら嬉しいか」
この一点です。
カメラマンが必要としていることを想像して一歩先の準備を進める。
喜ばれれば自分の考えがちょっとでも
カメラマンへの道に近づいた事になるのですから。
当時そのスタジオはアットホームな雰囲気と最新の設備でとても人気のスタジオでした。
まだ輝かしいバブルの残り香が漂うスタジオには毎日タレント、
ミュージシャン、ファッションモデル、著名人などひっきりなしに訪れ、
スタジオの駐車場はいつも高級外車であふれていました。
当然、カメラマンやスタッフも一流どころが目白押し。
気に入られれば指名してもらえて、
秘蔵の作品なども見せてもらえる栄誉にも授かりました。
特に覚えているのが平間至さんのelle japanの撮影に入った時です。
平間さんは私の憧れの人でFUJIFILMのGX680というブローニーフィルムを使う両手で抱える様な大きさのカメラを使ってらっしゃいました。
しかも手持ちで。。。
フィルムの巻き上げは自動なのですが、たまにフィルム交換でマガジンを開けると
巻き上げが緩くてブヨブヨなフィルムが出てくることがありました。
完璧なライティングで完璧な瞬間を捉えている平間さんの大事なフィルムが台無しです!
慌ててきつく巻き直すのですが、感光してしまったかもしれず、背中に冷たい汗が流れます。。
恐る恐る事の次第を伝え、どうしますか?ってお尋ねしたら、
「それも面白い事に成っているかもしれないから現像に出すので大事にしといてね!」って笑顔でおっしゃってました。
ちょっと呆気にとられました。怒られるかもと思っていたので。。。
あれだけライティングや構図に細かく取り組んだ撮影だけど、
写真の持っている偶然性を大事にされている事に感動した現場でした。
手持ちのスタイルももしかしたら同じお考えだったのではないかと思います。
思い起こせば、非力でわがままな子供だった自分が初めて組織の中で頑張れたのは
ひとえに仲間の存在があったからです。
意識も高く、将来を嘱望される、やる気に溢れる人がいっぱいいました。
私も撮影が終わった後、撤収前にカメラマンのライティングをノートにとったり、ポラロイドのカスを集めて眺めたり、
先輩を見習って、吸収できることは色々やりました。
そんな様々な撮影現場に立ち会えた事、本当に感謝の一言です。
それまで知らなかったプロフェッショナルの世界に関われたことは
人生の大きな糧になりました。
つづく
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