国語教育は、その基本的構造に致命的な問題があり、これまで学習者の言語能力の向上に寄与しえなかった。その問題についての説明と解決方法を示すことが、この文章の目的である。 国語教育の問題を示す前に、整理しておかなくてはならない概念がある。概念を整理していく過程の中で、国語教育の問題が表出されるからである。 まず、「言語」についてである。「言語」には二つの役割がある。一つは「思考」、もう一つは「伝達」である。言い換えると、「思考」というのは、自己との対話であり、「伝達」と
「語彙力を高める」と謳っている学習参考書がある。中を開いて見てみると、文章中でよく使われるであろう言葉の意味やら類義語やらが表にまとめられている。英語の「重要単語〇〇」といった具合だ。日本人はいつの間にか外国語のように日本語を学ぶようになったらしい。こういう単語帳を使用することが、語彙力を高める効果のほとんどない非効率的な方法であることは、英語教育で多くの人が散々思い知ったはずなのに、それを国語教育に「輸入」するところが、学習参考書を作る出版社の失敗である。 語彙指導が
国語と外国語の学習の決定的な違いは何かと考えると、文脈なのではないかと思う。国語の学習には文脈がある。日常という文脈だ。言語能力というのは、言語的知識の機能性が大きな役割を果たす。言葉を見聞きして想起される内容が適当なものならば理解したといえるし、そうでないなら理解が上手くいかなかったということになる。 日常的に行われる言語活動は、前後のつながりがありこれが文脈的だ。昨日話した人と今日も話す。同じ話題を繰り返し、多くの時間をかけて話していく。今日読んだ本を明日も読むだろ
人間には、繰り返すことでよりスマートにものを考えることができるようになる認知的な機能が備わっている。例えばこの文章を打っているパソコンでの入力も最初は驚くほど認知的な負荷をかけながら行っていた。子どもだったからというのももちろんあるだろうが、しかしそれだけではない。ローマ字の知識やどのアルファベットがどこにあるかなど、実にさまざまな情報の波に揉まれながら、文字を打ちこんでいた。 しかし、それが繰り返されるうちに、意識しなくてはできなかったことが、段々と意識せずにできるよ
教育という言葉の対義語はなんだろうかと考えてみるとすぐには思いうかばない。調べてみても、類義語はあるが対義語はない。しかし、教育というのも作用をもったものであるのだから、それとは逆の作用をするものも存在はしているだろうと考えた。 「教育」とは何をすることだろうか。具体的な行動はいくつか思いつく。典型的なものは、学校で行われる授業だろう。教師という教える側の人間がいて、生徒という学ぶ側がいて、両者の間で起こる営みを「教育」と呼んでいる。そういう営みをしないことが教育の対
近代の文学というものを、あえて美化して捉えると、それぞれの思想とか主張が色濃く作品の中に含まれていると思う。単にストーリーを作るのではなく、それを作らないといけない必要性が先にあって、追い立てられるように作品が生まれていった。個人が思想を迫られる時代だったのかもしれない。 思想というものが人を動かす力を持っていた時代だからこそ、文学というものが社会の中で大きな意味を持ち、能力の高い人間がそれに取り組んでいたのだと思う。文学的な作品を作ることを生業としながら、それ自体が目
「メディアリテラシー」という言葉を知ったのは、中学生の頃。国語の教材文の一つが、「メディアリテラシー」について書かれたものだった。そして、それを題材に卒業文集の文章を書いた。 今思えば、少し理解が不十分だったと思う。その文集もすでにないから、どんな文章を書いたのか見直すこともできないのだが、なんだか、新しい物の見方を見出したことに嬉しさを感じていたのは覚えている。 「リテラシー」という語は、「読み書き能力」と訳されることが多い。「メディア」という語や「リテラシー」と
知識を持つこと、それ自体に人の本質がある。知識とは既有の情報のことを指す。知識を通時的視点から二分すると、先天的知識と後天的知識とに分けられる。生まれながらにして持っている知識が先天的知識であり、生を受けた後に習得していく知識が後天的知識である。人は知識と共に生まれ、知識と共に生きている。このような知識との関係性は、他の生物と人という種を鮮明に区別する。 人の精神と知識とは不可分な関係性の下に成立している。人の主体を精神と措定したとき、知識が精神に与える影響は少なくない