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認知的余力について

 人間には、繰り返すことでよりスマートにものを考えることができるようになる認知的な機能が備わっている。例えばこの文章を打っているパソコンでの入力も最初は驚くほど認知的な負荷をかけながら行っていた。子どもだったからというのももちろんあるだろうが、しかしそれだけではない。ローマ字の知識やどのアルファベットがどこにあるかなど、実にさまざまな情報の波に揉まれながら、文字を打ちこんでいた。

 しかし、それが繰り返されるうちに、意識しなくてはできなかったことが、段々と意識せずにできるようになってくる。今では、文章の内容を考えることに多くの認知的資源が割かれている。同じことを繰り返し考えるということで、無駄な部分(考えなくてもいいこと)が削られる。そして本質的な部分だけを少ない認知的な資源で認識することができるようになってくる。

 ここで生まれるのが、認知的余力だ。文字を打つことに精一杯であったときには、認知的余力はほとんど存在しなかっただろう。それが反復作業の中で文字を打つことに費やす認知的な資源はごく軽微なものになり、その代わりに多くの認知的余力が生まれ、それを別の認知活動に活用することができるようになっている。

 何かが上達するときには、どこかでこれと同様の現象が起きている。本を読むこと、計算問題を解くことのような頭を使う活動だけではない。バスケットボールでシュートを打つことや、野球でボールを打つような活動においても同様の現象が起きているものと考えている。

 学習の中で反復というものが前時代的だと捉えられがちだが、学習の中で、これほど重要な要素が他にあるのかがむしろ疑問である。

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