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「社会的共通資本」を問い直す 『問いと対話の読書ゼミ』参加レポート


『問いと対話の読書ゼミ』について

2024年1月10日(水)〜2月28日(水)にかけて、全8回毎週水曜日時20時~21時30分で『問いと対話の読書ゼミ』を開催しました。
宇沢弘文の集大成、『宇沢弘文の経済学:社会的共通資本の論理』を「問い」と「対話」を基軸にしつつ読み込んでいく特別ゼミで、プロデューサー・編集者の岩佐文夫氏をファシリテーターにお招きして、開催しました。

本の内容もさることながら、むしろ「著者はこの本をどんな問いに基づいて書いたのか」、「今日を生きる私たちは、どんな問いをこの本から引き出すことができるのか」ということに着目して一冊の本を読み、さらにその問いを中心とした「対話」を行うことで、社会的共通資本そのもののより深い理解を目指していくゼミで、参加者の皆様と一緒に本研究部門のミッションである、「 社会的共通資本と未来を考える」ことを目指しました。

この度、参加者のお一人であるライターの渡辺 裕子さんに、特別に参加レポートを作成いただきました。

渡辺 裕子さん
https://paidia.cc/about

持続可能な成長を実現する「第三の道」とは 宇沢弘文「社会的共通資本」読書ゼミに参加してみた

かつて日本で「ノーベル経済学賞に最も近い」といわれた学者・宇沢弘文。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が出す回勅のアドバイザーを務め、法王に説教したという逸話を持つ。SDGsという言葉もなかった1970年代に提唱した「社会的共通資本」という考え方が再び注目されている。

ちゃんと読んでおきたい。でも経済学専攻でもない自分には、ちょっとハードルが高い。そう思っていた矢先、『宇沢弘文の経済学:社会的共通資本の論理』を課題図書とした読書ゼミが開催されると聞き、参加してみた。

オンライン読書ゼミで「社会的共通資本」を学ぶ

まずは課題図書を入手して、読み始める。全14章、厚さにして約3cm。

経済学の本というと、難解な数式が並んでいるイメージがあったが、そんなこともない。冒頭では、太平洋戦争の末期、旧制第一高等学校で著者が送った3年間の寮生活、米国滞在中に出会った本にまつわるエピソード。エッセイのようでもあり、思ったよりすらすら読めた。

読書ゼミの正式名称は「『社会的共通資本』を問い直す 岩佐文夫『問いと対話の読書ゼミ』」というもの。2024年1月から毎週水曜夜、全8回にわたってオンライン(Zoom)で開催された。

参加者は26名。大学院で宇沢弘文の研究をしている方もおられたが、ほとんどは私と同じように「経済学はそんなに詳しくない」という方々で安心する。オンラインだけあって、居住地域もさまざま。駐在先の海外から参加している方もいた。

第1回はオリエンテーション。参加者の自己紹介、ゼミの進め方の説明など。Voox編集長・岩佐文夫さんのファシリテートのもと、第2回以降、書籍を数章ずつ読み進めていく。

面白いなと思ったのは、各回で当番グループを決めて、担当する章の「要約」とディスカッションテーマとなる「問い」を発表すること。

たとえば、

  • 「今後、社会的共通資本としての道路に、どんな新しい価値が生まれるだろうか?」

  • 「水俣病問題やむつ小川原のような悲惨な出来事を今後起こさないために、どのような仕組み(社会的合意)が必要だろうか?」

という問いが出され、それについて毎回グループディスカッションが行われ、結論を全員でシェアする。

この「問い」を考えるのが、なかなかむずかしい。テキストを読み込んで、内容を吟味したうえで、参加者全員の思考を深めるような問いを設計する必要がある。
当番グループはゼミの前週、オンラインで打ち合わせるのだが、ここで2〜3時間議論することになる。「問いと対話の読書ゼミ」と題されているとおり、ここで合意形成について学べる設計になっている。

宇沢弘文という学者について

グループディスカッションに加えて、毎回ミニ講義がある。ファシリテーターである岩佐さんからは、問いや対話の技術について。

さらに大学院で宇沢弘文を研究している参加者が「経済学者 宇沢弘文とは」と題して講義してくれたり、ティーチングアシスタントのMさんが、思想の背景にあるリベラリズムの潮流を解説してくれる。書籍では省かれている背景がわかり、理解が深まる。

1928年に生まれた宇沢弘文は、東京大学数学科を卒業後、経済学を独学していたが、論文が認められ、米国スタンフォード大学に研究助手として招聘される。その後、カリフォルニア大学助教授を経て、シカゴ大学教授に着任。

もともと経済学の主流派といわれる新古典派の流れを汲んでいたが、繁栄を謳歌する米国社会で貧困や不平等を目の当たりにし、疑問を抱くようになる。そして米国の経済学者・社会学者ソースティン・ヴェブレンの思想と出会い、持続的な成長を実現する「社会的共通資本」の概念を提唱する。

「社会的共通資本」とはなにか

書籍のタイトルにもなっている「社会的共通資本」は、著者の提唱した概念で、以下のように定義されている。

著者は、社会的共通資本を大きく3つに分類している。

第7章では、生物学者ガーレット・ハーディンの論文「コモンズの悲劇」が紹介される。

共有の放牧地では、利益追求のために一人ひとりが放牧頭数を増やし、その結果、放牧地は荒廃し、「破滅」を招く。これを防ぐには、国有化か、完全な私有化しかないとハーディンは言う。

生産手段を社会全体で共有し、富を平等に分配しようとする社会主義の理想は、ソ連崩壊とともに潰えたように見える。一方、資本主義の御旗のもと、企業は利潤を追求し、いまや牧草地どころか地球そのものが荒廃の危機に直面している。

私有か公有(国有)か。二者択一的なアプローチではなく、第三の道があるのではないか。それは森林や河川、道路、医療や教育などの社会的共通資本を、共有財として管理することだという。

しかし当然ながら、それだけで問題が解決するわけではない。では、どうするのか。書籍に明確な答えは書かれていない。ただ教育や医療、都市などの社会的共通資本について、さまざまな方向性が示唆されているので、それをみんなで「あーでもない」「こーでもない」と議論していく。

とりわけ面白かったのは、あるチームが出した以下の問い。

「渋谷のど真ん中に公園をつくることが決まりました。行政は管理しないと言っています。市民はどのように管理しますか?」

一体どんなシチュエーションなのか(笑)。でも議論を通じて、社会的共通資本そのものについて考えさせられる。もちろん公園は、あったほうがいい。でも誰がどのように管理するのか。費用はどうするか。管理責任を負わない人は利用できないのか。総論賛成でも、各論で合意形成することの難しさを痛感する。

経済学は「よく生きる」ための学問

経済学について書かれた多くの本がそうであるように、この本もアダム・スミスから始まる。

‘’’経済学が今日のように1つの学問分野として、その存在が確立されるようになったのは、アダム・スミスの『国富論』に始まるといってよい。’’’

興味深いのは、そのあとに続く文章。

‘’’スミスがまず道徳哲学者として名声を得て、そのあとで、『国富論』という経済学の古典となるべき書物を書いたということは、経済学の考え方を理解する上で重要な意味をもっている。’’’

スミスは『国富論』に先立って『道徳感情論』という本を出版していた。『国富論』は『道徳感情論』を基礎に置いて書かれたという。

一人ひとりが人間的な感情を自由に表現し、生活を享受できるような社会を実現する。そのための手段として、経済的な豊かさが必要だというのがスミスの考え方だった。

『国富論』に登場する「見えざる手」という言葉はあまりに有名で、言葉が一人歩きしているような感さえある。市場メカニズムにさえ任せておけば、需給と競争がすべてを解決するとでもいうように。しかし本来、国富とは、人間らしく豊かな生活を享受するための道具に過ぎない。

経済学とは、人間的な豊かさと対立する無機質なものではなく、「よく生きる」ための学問なのだと気づいたとき、行き過ぎた競争と放任の結果、人間の豊かさや尊厳がそこなわれている現状は、そもそも本末転倒なのだと気づかされる。

日本でも、二宮尊徳は「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」と言い、渋沢栄一は『論語と算盤』で道徳と経済の合一を説いたが、いつの間に道徳だけが置き去りになっていたのだろう。

読書ゼミ 3つの効用とは

最後に、読書ゼミに参加して感じたことは、「みんなで本を読むのって、面白い!」ということだ。みんなで本を読むことの効用は、3つあるように思う。

ひとつは、ペースメーカーとなって読み進める原動力になること。

一人だったら途中で挫折しそうになるが、「は! 明日・・ゼミ・・・」というプレッシャーに追われて課題範囲を読み進めるうちに、いつの間にか一冊を読了する。長いコースをみんなで走っていたら、いつの間にかゴールしていた感じ。

もうひとつは、多角的な読み方ができること。

ほかの人の解釈や感想を聞くことで「そういう読み方もあるのか・・・」となるし、なによりディスカッションが面白かった。

3つめは、孤独感がないこと。

「難しくて挫折しそう」「宇沢先生、自動車に激おこ」などと話しながら読み進めることで、読書につきものの孤独感がない。「難しく感じるのは私だけじゃない・・」という謎の安心感が生まれる。

これに慣れると、逆にこれまでどうして一人で黙々と読書するのがあたりまえだと思っていたのかな? と思う。江戸時代は寺子屋に集まって、意味もわからないまま古典を音読して学んでいた。明治時代に入って、公共の場所(図書館とか)で音読が禁止された。学ぶことが「個」の領域に属するようになったのは、この100年くらいのことらしい。

誰かと切磋琢磨し、他者の意見に耳を傾けることで、新しい気づきを得る。対話を通じて、新しい価値を共創する。他者との関わりのなかで学ぶ場も、大切な社会的共通資本のひとつなんだろうと思う。

社会的共通資本と未来寄附研究部門の取り組みをご支援いただく窓口として「人と社会の未来研究院基金」を設けています。
特定の一民間企業からの寄附で運営されることが多い通例の寄附講座とは異なり、様々なセクターから参加をいただくことを目指しております。https://sccf.ifohs.kyoto-u.ac.jp

また、社会的共通資本がなぜ今必要なのか、Beyond Capitalismとして今後どのように社会的共通資本と未来を拡張していくのか、企業に求めることやアカデミアとしてのあり方も再考する各種イベントを実施しております。
https://sccf-kyoto.peatix.com

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